第3517日目 〈仕切り直しを前にして、ブログ主が本音と願望を吐露する回。〉 [日々の思い・独り言]

 そろそろ読書も執筆も本道に戻ろうかと思う、と書いた。その気持に偽りは粒程もない。本道とはなにか。読書感想文と日々の雑記と聖書ネタだ。行き詰まりを感じて時事ネタや報道の一コマをモティーフに、幅を広げようとして頑張ってどうにか達成できた(と自負)。
 時事ネタや報道の一コマを取り扱ったエッセイを書くのは、楽しかった。「えっ!?」と驚かれるかもしれない。けれど、充実感があったのだ。元からそうした方面のウォッチングは続けてきたし(新聞やテレヴィのニュース番組、時事番組には10代の終わりから接してきたイ)、年に数回程度とはいえそんなエッセイも書いて本ブログでお披露目していた。
 まァ、ここ数ヶ月の間、そうしたエッセイがお披露目され続けたのは、自分に書ける幅を広げることに加えて、これまで興味を持って読み追いしてきた「社会の出来事」を取りあげたエッセイを書けるようにするためのエクササイズだったのである。──第3514日目で書いたことですね。
 さて、それでは本題に戻って本道とは。
 本稿冒頭で触れたように、それは、読書感想文と日々の雑記と聖書ネタである。これを柱としたブログ運営に立ち帰るのだ。
 読者もそのあたり正直なもので、社会ネタが表舞台に現れてきた7月中旬(学生たちが夏休みに入る頃)になるとアクセス数が途端に落ちて、誰独り閲覧していない時間帯も目に付くようになってきた。一ト頃はこの現実を前にふて腐れたけれど、それでも聖書読書中に書いた過去記事が不断に読まれていることがせめてもの救いだった──なぜか、聖書であれば「エズラ記(ラテン語)」と「シラ書〔集会の書〕」、「マカバイ記 一/二」に、それ以外であれば村上春樹と椎名へきると『嵐が丘』に、アクセスが集中するのは謎だったけれど、聖書読書のエッセイについては、うん、金田一一ではないが「謎はすべて解けた」から……不問に処し(てあげ)ましょう、水に流し(てあげ)ましょう──。それが協定ですからね。
 アクセス数が安定しない日は続いた。それが持ち直して以前の状態に復しつつあるのは、社会ネタのお披露目が減少傾向に転じたここ10日程のこと。ひとまずは安堵だ。
 状況が好転するきっかけになったのは「第3498日目 〈NHK総合『100de名著』〜「折口信夫『古代研究』第1回を観ました。〉」だったようである。どうしてかようわからんけれど、数字は嘘を吐かない。この2週間でいちばんアクセス数が多いのは、現にこれなのだから。そんなに大したことは書いていないと思うのだけれどなぁ……。
 これがきっかけにもなって、そろそろ本道に立ち戻ろうか、と考えるようになったのである。社会ネタの良いところは、新聞やニュース番組に毎日接していれば否応なくネタが集まってくることだ。言い方を変えれば、メディアが存在する限りネタは無尽蔵にあって、書く材料も尽きることがない、ということだ。為、今後もこうしたエッセイは書いてゆくけれど、これまで程の頻度ではないですよ、というお話である。
 ──いま書いておきたい、お披露目しておきたいエッセイは幾つもある。1つは懸案の新聞ネタ(なぜ読まれなくなったか、どう読まれているか/活用されているか)、1つは折々の読書感想文、最後に聖書関連のエッセイである。
 聖書に関して述べておけばわたくしは既に、第3285日目で一部書物の再読の要を感じている旨書いている。それも事実で果たしておきたい願望だが、いまはその話ではない。
 本ブログが聖書読書ノートブログとして機能していた頃、1つの書物を読む前に必ず〈前夜〉として露払い的なエッセイを置いていた。が、いまになって読み返すと、経年劣化の感は否めない。はじめの頃はかなりあっさりと済ませていて、いま読み返すと薄味過ぎている。また、ここはこのように書けば良かった、とか、これは自分の認識違いであったな、とか、これこれのことを書くのを忘れたな、等々等の反省が、読み返すと胸中に浮かぶものも、ずいぶんとある。
 当該〈前夜〉を執筆・お披露目して本文を読み終えたあとも、聖書は勿論、ユダヤ教とキリスト教、オリエントやローマ帝国の歴史書など読んできた。執筆後に新たに知った事柄も沢山ある。それを盛りこんだ、新しい〈前夜〉の必要性を、一部書物に関しては痛感している。
 青写真は既にできあがっている。結果、まったくの新稿を要すのは旧約聖書の三分の一にあたる書物の〈前夜〉であり、既出〈前夜〉の補訂で良さそうなのは残り三分の二と判明。旧約続編と新約聖書の各書物〈前夜〉に関しては一部語句や表現の修正と誤認箇所の訂正で済みそうだ。
 この〈前夜〉を、多くは「再掲」という形で本ブログにお披露目してゆく。最早来年になること必定だが、これがすべて完了すれば心おきなく聖書再読や聖書世界にまつわるエッセイ群の執筆を、比較的現実的に考えられるようになるはず。
 執筆に用いる聖書は、やっぱり新共同訳になるかしら。ブログ用原稿を書く際に使ってきた、書込みもたくさんしたボロボロの新共同訳聖書・続編附き。聖書協会共同訳には未だ馴染みが薄いのでね。日本語訳聖書のことも書かないとね。
 ──咨、大風呂敷を広げてしまったなぁ。でも、後悔はしていない。人物素描は手に余る部分ありと雖もその他いずれも遅かれ早かれ、だから。
 「いま流行りの京都エッセイの類は書かない」と自ら誓ったのは生田耕作先生であった。「精神のストリップはしない」(日常エッセイは書かない)と述べたのは澁澤龍彦である。30年以上にわたって、わたくしのなかに棲み着いている言葉である。
 が、それを固守できているとは思うていない。言い訳すれば、ずっと毎日短かろうが長かろうがエッセイを綴っていると、ネタがないことに青ざめつつも絞り出さねばならぬのは屡々だ。厭ならその日は潔く休めばよい。正論だ、が、「毎日書いてお披露目する」を心に決めてこの10年超ブログを続けている者は休むことに抵抗を感じ、寝覚めの悪い気分を味わうのである。アゝ、ドウカ君、信ジテクレ、コレハ本当ノコトナンダヨ。呵呵。
 ……これからもどうぞ宜しく。◆

 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。
(マタ6:12-13)

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