第3521日目 〈読む順番、は大切である ──遠藤周作を例にして。〉 [日々の思い・独り言]

 その邂逅は不幸であったかもしれない。出会いそれ自体ではなく、順番のことだ。
 先日わたくしはここで遠藤周作『聖書のなかの女性たち』を読了し、ノートを始めた旨書いた。遠藤の著作を過去に読んだとは、記憶をどれだけほじくり返しても出てこない。近代文学の講義で読まされたかもしれないが、記憶から失せているとあっては読むことも読まされることもなかったのだろう。然るに此度の『イエスの生涯』と『キリストの誕生』、『聖書のなかの女性たち』の3冊が〈はじめての遠藤周作〉になるというて良い。
 順番を不幸というたのは他でもない、遠藤周作のあまりの悪文ゆえにである。悪文、とは言い過ぎか。雑、神経なし、なる言葉の方がより的確だ。されど文庫で3行にわたるワンセンテンスの文章に句点なし、それも意図しての文章に非ず、ただ頭に思い浮かんだことを書き流して推敲もせず読みやすさへの配慮なんて浮かびもしなかったであろう文章である(こんな感じの文章なのだ)。こんな文章で小説を書かれたら……途中で投げ出しているかもしれない。
 いうておることはとても良いのに、文章の点で消し難い瑕疵を残した作家というのが、わたくしの現時点に於ける、そうして今後も抱く遠藤周作観だ。ヒュームの言葉をここで取り挙げるのは気が引けるが、いちおう紹介しておけば、「内容(matter)は良いが、様式(manner)に問題があった」のが、就中『聖書のなかの女性たち』なのだった。
 遠藤周作は「夕陽」を「ユーヨー」と、それも某国営放送の美術番組で曰うた御仁であるそうだが、そんな言葉への雑な態度が文章にも表れた格好なのだろうか。「ユーヨー」の件は生田耕作先生のインタヴューで知ったが、その生田先生、遠藤の芥川賞受賞作「黄色い人」がきっかけで、現代文学への関心を永遠放棄したというのだから、遠藤周作もまこと罪な作家といえよう。
 わたくしにとって、生田先生に於ける遠藤のような存在があるか、ですって? ありますよ。先生のようにジャンルを永遠放棄したわけではなく、その作家の著書一切を売り払ってその後は一度もその作家の本を手にしたことも巻を開いたこともない、という作家ならありますよ、という意味ですが。桜庭一樹と又吉直樹、志賀直哉、どれも、もうけっして読む気の起きない輩、胸糞悪くさせられる衆です。
 咨、これは戦中に軍部協力をした作家を憎み、すべて処分して二度と触ること読むことなく、憎んでいる、とさえいうた佐藤春夫や萩原朔太郎、三好達治などを例にした方が良かったかもしれないね。
 ──『沈黙』や『海と毒薬』、『死海のほとり』には興味があって、読みたいという気持ちが強い。買っただけで読むには至っていないが……でも、『イエスの生涯』を読むまでは生田先生の言葉が呪縛のようにまとわりついて曇った目で見ていたから、小説を先に読んでも文章の粗雑に腹立たしさを覚えて床に叩きつけたりして、かれのキリスト教関係のエッセイを読むことは永遠になかったかもしれない。つまり、永遠の同伴者としてのイエス、哀しみを共に背負うてくれる癒やし手としてのイエスを明快な形で知る機会は失われていたかもしれぬ、ということだ。それは、不幸である。
 順番を過っていたら邂逅はなかったかもしれない、というのは、そうした所以なのだった。◆

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