第3384日目 〈横浜に残る吉川英治の痕跡。〉 [日々の思い・独り言]

 20代中葉のいつであったか。当時、八王子市に住んで鮮魚店を営んでいた叔父夫婦の家に泊まり、奥多摩へ連れていってもらったことがある。そのとき訪れて記憶に鮮やかに残っているのが、多摩川向こう岸の吉川英治記念館であった。
 祖父の遺した蔵書のなかに『新・平家物語』があったとはいえ、わたくしが実際に吉川英治を読むようになったのは『新編 忠臣蔵』が最初である。つまり、いま。横浜ゆかりの作家と雖もどうしたわけか敬遠していたのだ。
 わたくしの前に新潮社の〈新潮日本文学アルバム〉の第29巻、『吉川英治』がある(1985/08)。図書館の5階でいま、この本を開いている。偶々目にして手にし、開いたページには、まだ再開発の始まっていない現在のみなとみらい地区を撮ったカラー写真が載っていた。
 中央に日本丸が浮揚係留されている。あたりにいまを彷彿させる建物は片鱗だになく、そも人影がない。地面には雨の跡が残り、現在の日本丸メモリアルパークにつながる通行路がフェンスで脇を仕切られて伸びているのが見えるけれど、その程度だ。
 『かんかん虫は唄う』巻末エッセイで作家の畑山博は、かつて吉川英治が働き、該作の舞台となった横浜ドック跡を訪れて、こう書いている。曰く、──

 が、何と、当の造船所は、時代の流れに押し切られてか廃工場。正門はがらんと開いたままだし、広大な敷地の中は人影もほとんどない。
 あたりには、塀にたたきつけられて割れたびんの破片が散らばっている。
 錆びた鎖や鋲が落ちている。
 発泡スチロールの箱が一つ、風に追われて、道路の真中を走ってゆく。
 目を上げると、鋸の歯形の倉庫やクレーンの向こうに横浜駅付近の賑やかなビル街も見えている都心部だというのに。
 それなのに異様に人影が少なく、ただ埃のたった道だけが広い。
(P369-70 「かんかん虫は唄うの旅」 吉川英治歴史時代文庫8 講談社 1990/09)

──と。畑山がここを訪れたであろう1990年とは、既にかつての横浜ドック、このときは三菱重工造船所であったが、大型船舶の建造・修理に設備が耐えられなくなり、機能を桜木町から本牧へ移し終えた5年後である。おそらく前述の本に載る日本丸を中心にした写真とあまり変わらぬ光景を、畑山は見たことであろう。
 かの写真ではまだ日本丸のいるドックの向こうは埋め立てられていない。海である。東京湾である。ランドマークタワーの建つあたりには樹木が植わっていて、白い小さなたぶん2階建てだろう建物があるだけ。つまり、いまの光景をぼんやりとでも想像できるのは既に日本丸が係留されているからなのだ。
 その写真のキャプションは、「横浜ドック会社跡」である。吉川が少年時代、年齢を偽って就職した会社だ。別のページの写真はモノクロだが、明治38(1905)年撮影の「横浜船渠株式会社全景」が載り、こちらは海上からの撮影。
 入渠した船舶相手に作業中の吉川少年が事故に見舞われしばしの入院生活を余儀なくされた野毛の十全病院の写真はないが、その代わり跡地に建つ横浜中央図書館の写真が載る。現在の建物ではなく、建替前の懐かしい旧館だ。中学時代おっかなびっくり、及び腰で入館した覚えのある木造の旧館。高秀市政の時代に現在の地上5階の建物となあり、現在わたくしがモレスキンの方眼ノートに本稿第一稿を書いているこの場所にあった病院へ、吉川少年は入院していた。
 後述する尾崎秀樹の伝記に拠れば、吉川少年は横浜ドック時代、掃部山にいまもある井伊直弼公銅像の除幕式の見物にも出掛けていた(尾崎P136)。ほら、ここで横浜と彦根がつながった。──井伊公の銅像を囲むように広がる広場で食べる崎陽軒のシウマイ弁当は、うん、とっても美味いですよ。冷めても美味い、横浜名物、崎陽軒のシウマイ弁当です。買ってけろ、食べてけろ。
 また、吉川の父が経営していた新聞広告の取次店、日新堂は、尾上町通りの角に建つプロテスタント系の横浜指路協会(映画『さらば あぶない刑事』で重要物保管所のロケ地になり、押収した武器を狙ってテロリストがここを襲撃した……)前の信号を渡った場所にあった由。余談だが、わたくしの母方の祖父が勤めていた会社はこの指路協会とは線路を挟んで反対側、大岡川を渡った所だけれどやはりこの近所にあったそうだ。
 地元出身なのだから当たり前、といわれるだろうけれど、こうした土地の縁で結ばれる作家はまた格別の存在だ。勤務先のある場所が同じであったり、いつも歩いている場所、いつも通っている場所、多少とも馴染みある場所が、自分とその作家を時間を越えて結びつける。
 外堀を知らぬ間に埋められていた感なきにしもあらずだが、そうして幾ら藤沢周平からの一時的横滑りの結果知ったこととはいえ、吉川英治を読むのはいつか辿り着く行為だったのかな、とも思う。──この人の本をやがて読み耽ることあるかもしれぬが、うん、いまは積みあげてある藤沢の未読本をやっつけよう。
 最後に、吉川少年が作業中事故に遭ったドックについて一言したい。
 尾崎秀樹『伝記 吉川英治』(講談社 1970/10)に拠れば、その事故は明治44(1911)年秋11月に発生した(※)。1号ドックに入渠中の欧州航路の大型客船、信濃丸の外壁塗装の作業中に足場から転落、10数メートル下のドック底へ叩きつけられて搬送された先が前述した野毛の十全病院だった。
 『伝記 吉川英治』はその1号ドックについてこう描写する、曰く、「一万トン級の外国航路用の船舶が入渠する第一ドックなどになると、ドックの底で働いている人影がごく小さく見える」(P133)と。
 数字で示せば総長約204メートル、上幅約34メートル、渠底幅約23メートル、渠内深さ約11メートル、という(HP「文化遺産オンライン 旧横浜船渠株式会社第一号船渠」を参考とさせていただきました。記して謝意を表します)。この馬鹿デカさの一端は、現在は「ドックヤード・ガーデン」として開放されている2号ドックで偲ぶことが可能だ。
 この1号ドックでは山下埠頭に係留されている氷川丸が建造された。
 なおその1号ドックをわれらは令和の現在も、みなとみらいを訪れたらば否応なく目にすることができる。そのドックには、日本丸が係留されているのだ。◆

※「自筆年譜」ではこの事故を明治43(1910)年11月としている。吉川英明『吉川英治の世界』(講談社文庫 昭和59/1984年02月)所収。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。