第3401日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉1/4 [日々の思い・独り言]

 小泉八雲を握翫鍾愛して代表的著作を個人訳したに留まらず、若いときは自由律俳句を提唱した俳人、河東碧梧桐の門に入り、また佐藤春夫や永井荷風に師事し、流転を経て迎えた戦後は怪奇小説の翻訳と研究の泰斗として斯界をリードした最後の江戸前文人、平井呈一(本名;程一)の、特に前半生はずっと暁闇のなかにあった。
 それを此度、最後の門弟たる荒俣宏が関係者への聞き取りや埋没した資料の発掘てふ地道な作業を通して、出生前から歿時までの事績を掘り起こし、のみならず歿後の顕彰に至るまでの計約120年をここに取り纏めた。労作、とはこのような1冊のために準備された言葉である、とつくづく思う。
 【年譜】というと基本的に2つの方向へ大別される。1つは丹念に地道に史的事実を諸史資料から拾って確定した年月日順に羅列してゆく方向へ。いちばんポピュラーなのは歴史の教科書の巻末に載る年表だろう。最もストレートかつ無味乾燥とした年譜である。
 もう1つは諸史資料から羅列してゆくまでは同じだが、そこへ編者による新事実の報告や疑義が盛りこまれたり、従来の認識、見解の修正が指摘されたりする、文字通り「読む」ことを第一とした年譜だ。こちらは史資料の蒐集にかかる時間に根気、出費、なにより運が必要とされ、作業量と検討の時間も前者の比ではない。
 が、その分読み物として歯応えある〈作品〉が読者へ供されることにもなり、斯様に地味で時間のかかる作業を経て成った「年譜」のみが、後の世まで読み継がれるのだ。わたくしの披見し得た範囲で申せば、この「読む年譜」の最高峰は高田衛『完本 上田秋成年譜考説』(ぺりかん社 2013/04)だが、こちら荒俣宏の労作はそれにじゅうぶん比肩する1冊と断言してよい。
 本書年譜パートの特徴というか功績は、5点ある、とわたくしは考える。つまり、──
 ①初代谷口喜作(平井実父)の経歴を、「オッペケペー節」で知られる興行師・川上音二郎とのかかわりも含めて明らかにしたこと。
 ②戦前の平井の人生を、小千谷疎開時代も含めてその動静を跡附けたこと(小千谷時代は特にP106-127を参照)。
 ③二代目谷口喜作(平井実兄)に多量の作品──俳句だけでなく身辺の出来事に材を取って綴ったエッセイ、私小説に分類されるべき数多の作品──があることを報告したこと。
 ④長く判明していなかった平井呈一と吉田ふみの墓所の捜索に成功したこと。
 ⑤「文学上の女神」吉田ふみの経歴を明らかにしたこと(P96-99)。
──以上5点である。
 ところで年譜で一ヶ所、どうしても腑に落ちぬ部分があり、その旨出版社へメールで問い合わせてしまった。即ち、どうして昭和40(1965)年条は時系列で記述されていないのか、と。
 12月14日:恒文社主池田恒雄宛平井書簡の内容に触れ、続いて、9月16日:岩波文庫『怪談』が第27刷を機に改版された記事が177ページで終わると次の178ページで記されるのは、4月29日:小泉八雲長男一雄逝去、7月:平井が編集顧問を務めた日本初ホラー専門同人誌『THE HORROR』休刊の記事なのだ。
 なぜこのような椿事が出来したのか。組版ミス等によるものか?
 数日後、担当編集者からの返信メールを受信した。曰く、組版ミスに非ず、その年の八雲関連記事を1ページにまとめるため斯く相成りし候云々。又云、読者の読みやすさを優先した、読者の便宜を図った、と。
 ……なんだ、それ? なぜそんな読者に媚びて混乱させる編集作業を諒としたか。年譜に恣意を混ぜるのはやめてほしい。
 それでは【年譜】についてはこのあたりで筆を擱き、【エッセイ】に話題を移そう。

 ここ20年強の間、機会あるごとに掘り起こされてきた平井のエッセイは、どうしても八雲と怪奇小説絡みのそれに偏りがちだった。が、本書で初めて単行本に収録されたエッセイ群には、近代文学にまつわる文章──平井の活動最初期の文芸評論も載る。目次の順番に従い、大正15年の作物から始めよう。
 「私小説流行の一考察──併せて私小説に望む」(『文藝行動』大正15/1926年6月号)は、荒俣に拠ればこれが初めての文芸評論だった由(P163,P445)。既に幼馴染みで相愛の女性と所帯を持ち、前年には長女が生まれていることもあり、収入の手立てを模索しなくてはならぬ時期である。
 自然主義から出発して日本独自の、ガラパゴス的進化を遂げていった日本の私小説が〈個〉──〈私〉──にこだわりすぎた、或いはそれを深めてゆくに熱中しすぎた余り、却ってどん詰まりの袋小路に嵌まりこみ、盛衰の分岐点にあったこの時代、平井の評論は自然主義から枝分かれした私小説が単なる身辺印象雑記の域を出ていない点を突き、恥部を自ら露わにして更にそこにしか発想の井戸を持つことのできなかった<現代の私小説作家たち>へ向けた痛烈な警鐘にもなった。毎日新しく生み出される近代文学の名作佳作埋没作をリアルタイムで鑑賞できた同時代人ならではの、皮膚感覚を大事にして書かれた1篇でもある。
 その皮膚感覚は論文の〆部分でもう1つの、私小説というジャンルの終焉を予期する一文へ結実することになる。曰く、「軈ては必然の自慰に陥入り、終には凋落の憂目を見るであろう」(P317)と。
 これはみごとな的中を見せた。大正末期から着実に層を広げてきたプロレタリア文学が、(時勢を背景にして)一躍時代のトップ・シーンに躍り出て、もはや青色吐息の私小説に代わって覇権ジャンルとなったのだ。平井の評論はまさしくそうした交替期の真っ只中で書かれた点、時代の息吹を伝えてもいて、なかなか妙味ある1篇といえよう。
 次に古い作物が「近松秋江氏とストーヴ」(『週刊朝日』昭和2/1927年10月9日号)という訪問記事である。秋江の知を得たきっかけは未詳だが共に早稲田の学生だったこと、けっして無関係ではあるまい。
 大正末期から昭和戦前までの間、平井は何篇かの作家論、作品論を物して諸紙誌へ寄稿している。が、どうもこの時分の平井に本格的な作家論、作品論は向かなかったようで、事実、同じ年の2月に『早稲田文学』へ発表された「近松秋江論」は、「論」とこそいえど実態は初期作品から最近作までを概観して私見を加えた、〈クリティックとしてのエッセイ〉というよりもむしろ〈コンフェッション・オブ・フェイスに傾いたエッセイ〉、または〈オマージュという名のクリティック〉というのが近い。戦前の平井の文芸評論としていちばん人口に膾炙する「永井荷風論──読「濹東綺譚」──」も例外ではないだろう(日本文学研究資料刊行会・編『日本文学研究資料叢書 永井荷風』 有精堂 昭和46・1971/05)。こんなところからこの頃の平井にはクリティックよりも「近松秋江氏とストーヴ」の如く、新聞の文化部記者のような仕事の方が性に合っていたのではないかな、と思う次第だ。
 そこで「近松秋江氏とストーヴ」なのだが──「別れた妻に与える手紙」連作や「黒髪」三部作の時分とは打って変わり、地に足着けて日常・自然の営みをしみじみと享楽し、再婚して得た家族に濃やかであたたかな配慮を怠らぬ〈生活者〉としての秋江を巧く捉えて、その姿を眼前に彷彿とさせる好編といえるだろう。
 本篇が発表された昭和2年秋といえば、秋江は数えで51歳。大正11(1923)年の「黒髪」三部作を最後に情痴文学からは離れてゆき、同年再婚して女児2人が相続いて誕生すると、平井も綴るように、「今や秋江氏の日常は益々落着を加えて行く」(P325)のであった。この訪問記は秋江が情痴文学から離れて、より澄明な身辺小説を志し、史劇や紀行が目立ってゆくその過程を期せずして記録している点、貴重といえるだろう(このあたりは前述の「近松秋江論」でも或る程度まで跡附けられる)。
 書店にて容易に購入可能な秋江文学といえば、いまもむかしも情痴文学が専らなのが残念だ。他にも読んでほしい作品が山程ある。『文壇無駄話』や『旅こそよけれ』、或いは史劇「水野越前守」、或いは愛娘との生活に材を取った「子の愛の為に」などだ。そんな風に埋もれてしまった名編逸品が、秋江には幾つもある。何冊か仕立ての選集でも構わぬ、モノによっては抄録でも妥協しよう。情痴文学以外の秋江作品が広く読まれる環境を整えてほしいのだ。その際は──数年前に出た、「なんだかなぁ」と溜め息吐きたくなってしまう半端な一巻の伝記の影を薄くしてしまうような、必然的に作者はその伝記の著者とは違う人を指名して、精確公正偏りなき小伝と簡にして要な年譜を付し、諸家諸評の1つとして平井の「近松秋江論」が併収されたらわが喜びは一入である。□

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