第3390日目 〈喫茶店は知的生活/生産の良きパートナー。〉 [日々の思い・独り言]

 喫茶店での会話が知的生活の活性化に有効である、と説いたのは渡部昇一であった。外国から新しい雑誌が届くとそれを持って近所の喫茶店に出掛けてともかくも1冊を読了してしまう、ゆえに読み残しはない、といったのも、渡部昇一である。また、小田島雄志は喫茶店を主たる仕事場にして、シェイクスピア全戯曲の翻訳を完成させた。
 渡部、小田島の喫茶店のエピソードは、『知的生活の方法』正続(渡部 ※1)と『書斎の王様』(小田島 ※2)に載る。この3冊を10代後半から20歳ぐらいで読み、繰り返し繰り返し読んだ。その結果、喫茶店にこもって数時間を読書や執筆に費やす自分が出来上がる──常態化したのは30代からだけれど。
 しかしどうして喫茶店は、斯様な知的生活(生産)に欠くべからざるパートナーであるのだろう。イギリス発祥のカフェ文化の歴史にもかかわるところになろうから詳細は省くが、とどのつまり、適度なる非日常とそれがもたらす気分の変化がコーヒーに含まれるカフェイン作用と結びついたとき、なにかしらの刺激剤を人に与えて脳ミソを活性化させ想像力や考える力をフル回転させた挙げ句、読書や執筆がはかどることに、或いは、なにもせずとも一ツ事に不断に考えを巡らせていたことで思わぬアイデア、思わぬ解決の糸口を見出すことに、各々つながるのだろう。これまでの自分の体験を踏まえると、そう考えることができるのだ。
 喫茶店にこもって読みあげた本は、数不知。喫茶店にこもって書きあげたなかでいちばん大きなものは、本ブログの発端でありいま以てなお中核を為す聖書読書ノートだ。喫茶店という日常と非日常の境界にあってやや後者寄りと思う場所での読書と執筆がどれ程の成果をもたらすか、誰よりも──とはいいかねるが、わたくしは自分で体験しているがゆえによく知っている。
 もっとも、喫茶店とはいうてもスタバやドトールのようなチェーンのカフェをこの場合多く含んでいるのは、読者諸兄の過半はご存知かもしれないが念のため、お断り申しあげておく次第。
 いまの切実なるわが願いは、自宅から歩いてゆける距離、もしくは定期で通える範囲内で駅から然程離れていない場所に、美味いコーヒーを飲ませ美味しいワッフルを食べさせてくれる、店内は静かで客同士の会話も小さく低い声でなされ、マスターやスタッフの対応も実に気持ち良く、いつ行っても適度に空いていて、何時間いても嫌な顔されない、そんな喫茶店があったら嬉しいのになぁ、ということ。
 新しいスタッフが入ってきた途端接客クオリティが著しく落ち、店の雰囲気が悪くなってしまうような某神保町の喫茶店みたいなところは、元より論外。自分も経験があるが、悪性ウィルスは周囲の良好な環境を破壊して、すべてを自分の<色>に染める力を持っていますからね。
 徒し事はともかく、上述のような喫茶店を求めてしまうのはおそらく、元々横浜中心部って所が戦後は名だたる喫茶店不毛地帯と化したからこそか。いい方を換えれば、現在はほぼ玉砕、瀕死の状態、ということ。これも時代の流れかしらね。
 と、こんな風に倩書き並べていると、伊勢佐木モールにあった南蛮屋cafeは本当に理想的であり、オアシスのような場所であった。三上さんや真鍋さんの淹れるコーヒー、焼いたワッフルをふたたび食すことができるなら、その1杯、その1口のために、1年分の年収をささげたってよい。いや、マジで。◆

※1 渡部昇一『知的生活の方法』P203(講談社現代新書 1976/04)、『続・知的生活の方法』P69-72(講談社現代新書 1979/04)
※2 小田島雄志「書斎憧憬史」 『書斎の王様』P35-37 (岩波新書 1985/12)□

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