第3404日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉4/4 [日々の思い・独り言]

 「他郷に住みて」の吉田ふみは、平井と起居を共にした人である。短いものながら、「土地の文化人と付き合うより漁師や農家の人達の話を聞くほうがよっぽどたのしい」(P414)といい、「子供好きな平井のところへは、近所の子供たちがよく遊びに来て、にぎやかだった」(P413)など、仕事を離れた平井の等身大の日常を伝えて余りある。
 地にしっかりと足を着けて地域の人々との付き合いをとても大切にしていたわけだが、「よく遊びに来ていた子供たちは、それぞれ店の主になって、今一人暮らしの私に親しく声をかけてくれる」(P413)のはけっして平井1人の人柄などではなく、吉田自身の人柄にも起因するところであったろう。こうした縁が巡り巡って最終的に平井の遺品が原稿共々神奈川近代文学館に納められ、また、吉田の最晩年の生活を支えることになったのは至極当然、そうして極めて幸福なものであった、と感じるのである。
 それだからこそ、というべきか、結び近くで吐露される吉田の本音には余計に胸を突かれるのだ。即ち、人々との縁に恵まれた千葉県富津市での生活も、東京に生まれ育った彼女には心底より馴染めるものとはいい難く、生まれ故郷たる東京を懐かしんでいる、と。生まれ育った故郷を離れて他郷で暮らすことにやがてわたくしもなるけれど、どれだけ移った先を好ましく思うて長く住み、地域との縁を育むことができたとしても、かつまたそこを第二の故郷と称しても、所詮自分はその土地の産ではないから、陰で他所者と囁かれるのが関の山だろう。ゆえに吉田ふみの本音はこちらへ、殊更深く響くのである。人間は生まれ育った土地を離れるべきではないのかもしれない。
 「他郷に住みて」は『無花果』昭和60(1985)年9月30日号に掲載された。
 回想記のもう1篇は実兄、二代目谷口喜作の私小説『雲の往来』第5章(『三昧』昭和3・1928/11)である。
 作中、平井は「貞一」、<私>こと二代目喜作は「彌吉」と、程一養家平井は「濱中」、生家谷口は「樫村」と表記される。それを踏まえて第5章の粗筋を語れば、──
 彌吉弟貞一の縁談が具体化し、養母樫村某がその旨生家へ報告に来る。しかし生母たる濱中某はそれに反対した。身銭も稼げぬ貞一が所帯を持てば細君や生まれるだろう子供まで養家の世話になることとなりそんな迷惑はかけられない、というのだ。こうして両家の往来は途絶える。断絶は関東大震災を挟んで5年に及んだ。それを貞一兄彌吉が心苦しう思うて濱中家に出向いて談判、弟とも話し合い、両家はようやく和解した、という筋。
 私小説と呼ばれる小説を読めば読む程、作中描かれた出来事にどれだけ作者の実体験や現実が反映しているのか、知りたくなる。いまもむかしも同じだ、当然だろう。荒俣も『雲の往来』第5章がどれだけ事実を伝えているのか、検証に取りかかった。
 年譜の当該箇所(P57,59-60)だけでなく、『妖怪少年の日々──アラマタ自伝』(角川書店 2021/01)P284-5でも、谷口の作品に出る弟長女の名前が同じこと、断絶当時の心境を詠んだと思われる句「いさかひて雨夜へだつる葭戸かな」(『海紅』昭和3年10月号)が谷口の小説にも載ることを以て、平井が幼馴染みで相愛の仲だった女性と「所帯を持つことになった事情が、ほぼ正確に後世に伝えられた、と思いたい」(『妖怪少年の日々』P285)と検証の筆を擱いた。
 誰も異論はないであろう。「うさぎや」経営の多忙の傍ら、俳句に、随筆に、身辺雑記に、私小説に、と多量の作物を残した二代目谷口喜作に感謝してただ頭を垂れるのみである。
 『雲の往来』第5章が伝えるのは、なにも平井の動静ばかりではない。一方で「うさぎや」が文人墨客趣味人のサロンとして機能していたことを裏附ける場面もある。併せて当時の文壇、芸術界のニュース、ゴシップも刻印されている点、今日の読者が当時の様子を知り、深く分け入ってゆく足掛かりにもなろう。然り、島崎藤村の原稿料(一部)返却の件、川端龍子の院展脱退の件、いずれも昭和3年に本当にあったことなのだ。

 ──以上で長く、長くなってしまった感想文は終わるが、もうちょっとだけお付き合い願えないだろうか?
 2つの誤記誤認に気附いたためである。1つは初代谷口喜作が住まった「横浜市保土ケ谷区尾上町」とはどこなのか、もう1つは佐藤春夫の「故郷」である。前者については既に書いて本ブログに予約投稿済みなので(たぶん、明日お披露目)、後者のみここでは触れる。
 疑問の記述は本書70ページにある。曰く、「(猪場毅は)昭和五年に現在の和歌山市に落ち着いた。佐藤春夫の故郷である」云々。
 猪場は後年、荷風の春本『四畳半襖の下張』流出事件に平井と共にかかわった人。編集者であり随筆家であり、宇田川芥子として富田木歩の門下に連なった俳人でもある。伊庭心猿、という号を別に持つ。千葉県市川市は真間手児奈堂の近くに住まった。
 なお、松本哉『永井荷風の東京空間』(河出書房新社 1992/12)には猪場毅のプロフィールと遺著『繪入 墨東今昔』の紹介、猪場邸(此君亭)訪問記があり、その折未亡人と面談した記述がある(P67-83,126-142)。これは初めて「負の側面」から離れて、比較的中立の立場で書かれた猪場毅に触れた文章ではあるまいか。
 その猪場は昭和5(1930)年9月、東京から和歌山市へ居を移した。佐藤春夫の要請を受けてのことだったようである(P68)。その地で『南紀芸術』という雑誌を発刊した。地方にあってはかなりハイブラウなものであったらしい。
 さりながら佐藤春夫の「故郷」を和歌山市の文脈で斯く述べるとは何ぞ。和歌山県、ならばまだ頷けもしよう。和歌山「市」とは、はて面妖な。『妖怪少年の日々』ではちゃんと猪場は紀州に移り住んだ、佐藤の故郷である、と書いているのにね(P224)。これなら良いのですよ、紀州であるのは事実だから。
 わたくしは平井呈一ではなく文化学院を通して佐藤の著作に親しんで今日に至るけれど、在学中必要あって調べた佐藤略伝、著作にも和歌山市との縁は見出せなかった、と記憶する。それとも知らぬ新事実が近年発見されていたのか? まさか!
 佐藤春夫の「故郷」は和歌山県新宮市。南方熊楠や西村伊作と同郷である。東京関口台以外にも横浜市や兵庫県武庫郡(現:西宮市、宝塚市)に住んだことはあっても、和歌山市には住んだのか。仮に住んでも「故郷」と称す程か。──NO、である。佐藤と和歌山市にかかわりはないようである。
 斯様に書かれた理由は、記憶のままに書いたか、資料を読み間違えたか、なのだろうが、この程度の、略年譜と日本地図を開けば一目瞭然な事柄を間違えないでほしい。第一、佐藤春夫といえば中退者とはいえ、編者と監修者にしてみれば三田の大先輩じゃないですか(みくらにもそうである)。塾監局やメディアセンターに問い合わせれば済む話ではありませんか。
 そも校閲がこの点をろくに調査もせずスルーしたことがいちばんの原因。ご存知だろうか、和歌山市と新宮市は紀伊半島の端と端、和歌山市は大阪府に近く紀伊水道につながる和歌山湾に面し、新宮市は三重県に近く(というか県境)太平洋に面しているのだ。
 いずれにせよ編者がどのような意図で「故郷」という単語を用い、校閲がどう判断してそのままにしたのか、気になるところだ。なにか反応があるかもしれぬが、所詮「理屈と膏薬はどこにでも付く」を証明してみせるような内容だろう。

 斯くして荒俣宏・編/紀田順一郎・監修『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社)感想はここに了んぬ。長文読破多謝、擱筆。◆


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  • 出版社/メーカー: 松籟社
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