第3556日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 『恋愛名歌集』を読みながら自分と『万葉集』の相性の悪さを嘆いた。ここに選ばれてある好きな短歌をきっかけに、幾らかなりとも改善の兆しが芽生えれば良いな、と希望した。
 それはやがて軌道を変えて、1つの仮定に、個人史の ”if” へ至った──学生時代、『万葉集』の講義を履修することができていれば未来は、即ち〈現在〉はどのようになっていたろうか、という個人史の ”if” 。それも三田ではなく、マロニエ通りの学校で。
 入学した年、日本文学演習・奈良朝の講義は年間を通して休講だった。担当の阿部先生が体調不良のためである。
 前年度のうちに先生側からその旨連絡があったにもかかわらず。代理を立てることなく年間休講になった。にわかには信じがたい話だけれど、単純に代打が見附からず、やむなく……というところだったのだろう。そのあたりの事情を先生ご本人から伺ったことはない。事務の中村さんや本多先生、主任の立花先生はご存知であろうが、在学中も卒業後も閉校までこの点を質すことなく過ごしたわたくしの失態といえよう。でもまァ、のんびりした学校だったからな……。

 元号が昭和から平成に変わって2回目の年度。予定されていた講義のテキストは『古事記』だった。が、これは最終的に履修要項へ印刷されて学生に告知されたものである。先生は当初、『万葉集』を考えていたらしい。卒業する年の春、狂言の先生と近代文学の先生らもお誘いして行った鎌倉で、阿部先生から直にお聞きした。そのとき『万葉集』にした理由、『古事記』に変更された理由も伺ったはずだが、こちらはふしぎとなにも覚えていない。
 覚えていないのだが、はじめ『万葉集』が最有力候補だった理由については、なんとなく思い当たるフシがある。そのマロニエ通りの学校──就中大学部の文学専攻コースは、国の別なく「リトル慶應」と一部で呼ばれていた事実からお察しいただけるように、慶應義塾大学の先生方が多く名を連ね、代替わりの際もその弟子筋や朋友に引き継がれたケースが目立つ。当時の文学科主任が塾員であったことは、大きく関係していよう。そうしてわたくしが籍を置いた日本文学コースも、三田で国文学を教える先生方が毎年度、何名かはおられた。とはいえ、わたくしの代はその栄にいささか陰りが生じた(?)時期で、在籍した3年間は、中世文学の岩松先生と中国文学の星野先生のお2人だけだったが。

 阿部先生以前に日本文学演習・奈良朝を担当していたのは、加藤守雄だった。折口信夫の愛弟子である。どのような経緯でマロニエ通りの学校で教鞭を執ることになったか不明だが、加藤は昭和34(1959)年4月から亡くなる前年つまり昭和63(1988)年3月まで日本文学コースの主任となり、奈良朝の講義のみならず原則3年生を対象にした日文ゼミナールと日本近代文学を教えていた。増田正造の中継ぎを1年経て(当該年の履修要項が空白で印刷されているため、講義内容不明)、阿部先生がその任に就く。
 わたくしは加藤歿後(平成元/1989年11月歿)に入学しているので直接その謦咳に接したことはないが、ずいぶんと学生から慕われ、特に女学生の間でその人気は熱狂的、なかには結婚を願い出る人までいたぐらいの男前だった。──卒業生の、加藤の思い出を語る表情や口調、むろんその内容からも、そんな人物像の一斑が窺えた。折口信夫の学統に列なり、加藤の旧友池田彌三郎に師事した岩松先生や、事務の中村さん、主任の立花先生、図書室の川部さんたちからも同様のことを伺っている。その人望と人々に良き思い出を刻ませた人徳、まこと羨ましい限りだ。──写真で見ても古武士のような精悍さと、悲哀を知り尽くしたもの柔らかさが綯い交ぜになった顔立ちの人である。□

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