第3557日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉2/3 [日々の思い・独り言]

 その加藤守雄はマロニエ通りの学校で、何年にもわたって『万葉集』を講じた。但しその講義は文学としての『万葉集』というよりは、民俗学の方面からのアプローチがメインだったようだ。『加藤守雄著作集』を企図する以前に、その学問を知りたい、その文章を読みたい、の一念から一夏三田の図書館に籠もって論文やエッセイの掲載誌をコピーしまくり読みまくり、秋から師走に掛けてはマロニエ通りの学校、國學院大學折口博士記念古代研究所では資料の借覧とコピーをいただき、知る人の話を伺うこともできた。
 そうして手許に集まった加藤の文章の1つに、マロニエ通りの学校の履修要項がある、これはたしか、事務の中村さんの手を患わせたのではなかったか。これを読んでいると、上代文学の時間は『万葉集』を講読し、ゼミでは民俗学を主体にしていたようである。試みに、1983年度の履修要項から加藤が担当した3つの講義内容を引いてみよう。曰く──

日本文学演習・奈良朝
『萬葉集・巻一』講読
 萬葉集巻一及び巻二は、雑歌・相聞・挽歌という部類立てを持つ、宮廷詩のオーソドックスな形を示す巻である。年代的にも萬葉集中、もっとも古い歌群とされる。巻一の講読のかたわら、萬葉集の成立、様式の変遷等を考えてゆく積りである。

日本近代文学
近代短歌史(釈迢空論)
 釈迢空は、少年期に『明星』はの短歌の影響のもとに出発し、のち『アララギ』はの一員として、写生を基本態度とするようになった。しかし、それにもあきたらず、独自の境地を、自ら開拓した。本名、折口信夫、すぐれた古典学者、民俗学者であり、詩・小説にも、ユニークな作品を残している。

日文ゼミナール
歴史と民俗
 歴史学と民俗学との対象および方法の相違を考え、民俗学の扱うべき分野について、個々の事例をあげて概説する。読むべき本は、その時どきに支持する。
 (注)
 日本ゼミナール[ママ:引用者注]は三年生に限る。但し日本文学コース及び創作コースの一、二年生は、選択科目として受講することが出来る。

──と。
 手許にあって確認できる履修要項(1974-87年度)に拠れば、「日本文学演習・奈良朝」ではずっと『万葉集』がテキストとなり、それは就任から間もない頃から始まってたと卒業生から聞いている。1年で1巻を講読するスタイルが昭和30年代後半から固持されているならば、おそらく加藤は『万葉集』全巻の講読をマロニエ通りの学校で果たしている可能性が高い。が、そう単純な話はあるまい。というのも、1973年度と1974年度は続けて『万葉集』巻一講読が行われているからだ。ただ、講義で取り挙げる巻がなにであっても『万葉集』を文学史的見地から、また、折口の弟子として学び、フィールドワークを行った経験も反映させた、単なる演習の域を超えた内容であったろうことは、加藤の下で日本文学を学んだ卒業生たちの談話から容易に推察できる。
 「日本近代文学」は年度によって担当者が異なるが、加藤が担当した際は上述した釈迢空論を専らとした近代短歌史の他、釈迢空の小説『死者の書』研究(1986年度)、与謝野鉄幹・晶子夫妻の短歌、かれらが主導した『明星』派の短歌を軸とした近代短歌史の講義(1979-82年度)、短歌を中心にその生涯や為人、理想を探る与謝野晶子論(1985年度)などを講じた。基本的には師折口信夫と『明星』派の短歌/歌人がテーマであるが、後者はマロニエ通りの学校創立期の講師陣に与謝野夫妻が加わり、晶子もまた短歌実作や『源氏物語』講義を担当したことから、テーマとした側面もあったろう。
 「日文ゼミナール」は当初「「国文ゼミナール」で、1976年度から名称変更された。1974-87年度の間、加藤がゼミで取り扱った中心は、民俗学であった。既に引用した民俗学概説や年中行事(1984年度)、祭り(1985年度)、柳田國男『遠野物語』(1986年度)と『雪国の春』(1987年度)、という題目にそれは明らかだろう。一方で日本の古典、即ち、『古事記』、『風土記』、『日本霊異記』、『今昔物語』も取り扱っている。それらについても卒業生の話に拠れば日本文学演習・奈良朝同様、作品の民俗学的部分、歴史的部分の話がよく出たそうだ。加藤の学問が民俗学に立脚した文学研究であったことは、この点からも明らかだろう。なお日文ゼミナールは1976年度だけ、与謝野鉄幹・晶子夫妻研究を扱ってる。邪推すれば1979年度から始まった日本近代文学を担当する予行であったかもしれない、と履修要項を眺めながら考えている(1978年度の日本近代文学は年間休講)。
 加藤の学問は民俗学に立脚している。では教壇に立つ以前、つまり三田の学生だった頃だが、民俗学への傾倒その研究成果は、どんな形で表出したか。一例として池田彌三郎と行った、昭和11(1936)〜16年(1941)年までの伊豆に於けるフィールドワーク(民俗採訪)が挙げらる。
 このフィールドワークをもうすこし詳しく話せば、当時としては珍しくカメラを担いで、伊豆地方各地に残る道祖神の写真を撮って回る、というすこぶる単純なものではあった。池田と加藤にはこの成果をまとめて世に出す案があり、出版社も決まっていたがいつの間にか立ち消えとなった。折口は昭和16年8月『むらさき』誌上でこの、弟子たちのフィールドワークを「道の神 境の神」なるエッセイで紹介した。このときに写真は整理されて陽の目を見、その後全集にも収められたが、加藤が預かっていたネガと記録は戦災で焼失したという(「わたしの履歴」 『わが師わが学』P168 桜楓社 1967/04)。
 他にも池田と加藤は「花祭りや雪祭りの採集などにも一緒にでかけたり、近江の木地屋の本拠へ文書をうつしに行ったりもしたが、九州を歩いた十余日の旅行が印象深い」(前掲P169)とのこと。こうした日本各地への、学生から院生時代に行った採集旅行にのめり込んでゆく過程で、むかしの日本人の暮らしを、各地に残る風習や祭祀、人工物から辿る研究を始めたのである。
 そうして勿論、慶應義塾大学の国文科、恒例行事たる万葉旅行での経験も、土壌にあった民俗学への関心を深めるきっかけになっただろう。池田と加藤が学生だった頃、旅行の引率役は折口であったが(ex;池田彌三郎「万葉集輪講座談会・万葉旅行」 『孤影の人 折口信夫と釈迢空のあいだ』P273-4 旺文社文庫 1981/09)、この万葉旅行については本筋から大きく外れる話題であるためこれ以上述を省くが、いつか別に稿を起こしてみたく思うている。□

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