第3577日目 〈トイレ読書への疑問、ひとまず疑問氷解す。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日のエッセイには省いた記述があった。山村修(狐)『遅読のすすめ』にある一節だったが、記憶にあるものと実際のそれが異なり、そのまま引用等してもエッセイには馴染まぬと判断、省いたのだ。
 件の一節を調べるため、正味5分程、手前に積み重なる文庫の山を切り崩し、『遅読のすすめ』を取り出した。結果は上述した通り。
 が、そのまま棚に戻してふたたび文庫の山で閉ざすのも気が引ける。為、そのまま今日の数10分を、それを読むのに費やした──すると、偶然開いたページに、時々意識に上っては消えていった疑問の答えが書かれていたのである。
 トイレ読書についてつれづれ想い巡らすときは決まって、籠もるたびにカントを読み続けて数年後に完読した人物のあったことを思う。そうして、それは誰であったか、本当にカントであったか、と小首を傾げ、誰の何という本で読んだか思い出せぬことに溜め息する。
 答えは期待していないとき、突然向こうからやって来る。と、誰かがいっていた。誠の言葉である。今日わたくしはそれを経験した。
 多読家、速読家の読書スタイルに疑を呈し、丁寧に読む書き手として裁判官を務めて多忙を極めた倉田卓次を挙げ、その文章に共感、共鳴を示した章のなかの、下記の一文である。

 もちろんその読書エッセイにあきらかなように、倉田卓次はけっして急いで読まない。聖書などは旧約・新約ともに一日一章を目途とし、四年をかけてトイレで(!)読んだ。(P152)

 それは誰であったか──倉田卓次であった!
 本当にカントであったか──否、まさかの聖書だった!!
 人間の記憶が如何に曖昧で、事実を都合よく(無意識に)改ざんするか。好例といわずしてどうするか。今度、図書館に出かけて『裁判官の書斎』シリーズを検めてみよう。
 さて──、聖書であれば、倉田がどれだけ一行一行を舐めるようにして読み、見落としがち、読み流しがちな箇所をも読んでいたか、わたくしもありありと想像できる。けっして広いとはいい難い個室で聖書を読破するというのは、言うは易く行うは難しの例を持ち出すまでもなく、なかなか至難な行いである。スタバのような場所でもなかなか至難だったのだから、個室トイレとなると尚更では……、
 自宅のトイレでのみ読んだのか、勤務先でも都度持ちこんで読んでいたのか、原文にあたらぬまま本稿を書いているため未詳だ(この点については後日調査して、結果を反映させよう)。が、短い、限られた時間でかなりの集中力を要しただろうことは疑い得ない。時に立ち止まり、戻ったり、を繰り返して誠実に対象と相対したであろうことも、また然りである。旧新約聖書を4年かけて読了した、というから、おそらく旧約聖書に3年弱、残りが新約聖書に費やした時間であったろうか。
 ──山村の本で斯様な件に遭遇したけれど、正直なところ、わたくしはまだ、トイレでカントを読破した誰かのことを何かで読んだ、という年来の思い込みを捨てることができずにいる。
 とはいえ、斯様に疑わしき部分を孕むと雖も、まずはこの件、ひとまず疑問氷解とする。◆

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