第3581日目 〈肉筆浮世絵コレクター、今西菊松氏の夢。〉 [日々の思い・独り言]

 商店街にあったO書店で立ち読みして、後日神保町のS書店でようやく見附けて購入したのが、長山靖生『コレクターシップ 「集める」ことの叡智と冒険』である(JICC 1994/04)。鳥類学者や美術品コレクター、博物学者たちのコレクション形成や「集めた」蒐集品からどのような業績が生まれていったか、沢山の先人の足跡を羅列・紹介した1冊だ。
 O書店はバブル崩壊から程なくして店終いした。『コレクターシップ』はおそらく新刊として入荷したのだろう。棚にささったままの本を偶々手にして、夢中になって立ち読みしたのは1992年の秋頃でなかったか。その1992年といえばわたくしはまだ学生で、必要なテキストや研究書を爪に火を灯すようにしてすこしずつ買い集めていた時期である。そんなわたくしが『コレクターシップ』を読んで最も共鳴し、そのコレクターシップに感銘を受け、すこぶる崇敬の念さえ抱いたのが、肉筆浮世絵コレクターとして知られた今西菊松氏だった。
 本書で今西氏を知り、咨、今西氏の生活とコレクションへの情熱って、自分のなかにも同じようなものがあってよく分かるな、と勝手に親しみを覚えたことを急ぎ言い添えたい。
 神保町のS書店で『コレクターシップ』を購い、何度も読み返した或る日、神保町の美術展目録を多く扱う古書店の棚へ目を走らせていると、この今西コレクションの展覧会目録があった。勿論、財布と相談の上で、購入した。そうして帰りのJRのなかで内心溜め息つきつつ読み進め、それはいまでも廊下の書棚にある。ますます今西氏への共鳴は強くなった。いずれ展覧会目録も材料にしたエッセイを物せたら、と思う。
 さて、『コレクターシップ』が今西氏の生涯や業績等、取り挙げた最後に著者はこうした一節を綴っている。それは独り今西氏に対してのみならず、決して空間や資金に恵まれていない貧しきコレクターたちへの言葉でもある。本稿〆括りの前に、その一節を引く。曰く、──

 彼が亡くなった時、その四畳半の狭い部屋の中には、ろくな家具とてなく、ベッドを残して、あとの空間にはすべて肉筆浮世絵や茶道具が雑然と積み上げられていた。
 たぶん彼は、それらをじっくり味わうこともできなかっただろう。彼の部屋には、それらを広げてみるだけのスペースさえもなかったのだ。だが、彼は夜ごと、空想のなかで茶会を催し、愛してやまなかった肉筆浮世絵を一堂に広げて眺めていたことだろう。もし彼に、もう一度人生をやり直せるとして、平凡な幸せと、コレクターとしての幸せとどちらを取るかと尋ねたら、おそらく氏は後者を選ぶに違いない。私はそう確信するのである。(P104)

──と。
 咨、わたくしも同じだッ!◆

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