第3579日目 〈「ルカ伝」の「灯し火の喩え話」について。〉 [日々の思い・独り言]

 風呂あがりに「♪ハイホー、ハイホー♪」と7人の小人の歌をうたっていたら、奥方様に「どうかしちゃった?」とおでこごっつんこされたみくらさんさんかです。ハイホーではなく、”Hojotoho! Heiaha!”にすれば良かったな、と反省しつつ、それでは、と今日の話に移ることにして、──

 新約聖書を読んでいると、心のどこかにずっと残り続けている一節、というのが幾つもあります。正確に覚えているとかではなく、福音書でイエスはあんな喩え話をしていたな、パウロ書簡に信仰と義の話があった、公同書簡に正しいことを為すがゆえに苦しむてふ文言があった、黙示録に大淫婦が裁かれるエピソードがあった、なんてレヴェルですが、そんな具合にずっと心の片隅にあるか、深い底へ沈んでいたのが、なにかの折にすーっ、と表面に浮かびあがってくる一節や挿話があります。新約聖書を読んだことのある人であれば、誰しも同じような経験を持つと思うのですが、如何でしょうか。
 「ルカによる福音書」にある「灯し火の喩え話」の話も、わたくしには心のどこかでずっと残り続けているイエスの喩え話の1つであります。この「ルカ伝」に同様の喩え話は2箇所に出ますが(「マタイ」と「マルコ」に各々並行箇所あり)、わたくしが話すよりも先に当該節を下に引いておきましょう。曰く、──

 (イエスが弟子たちに)
 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:16-18)

 (イエスが弟子たちに)
 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」(ルカ11:33-36)

──と。
 4つある福音書のうち、わたくしが最も好むのは「ルカ伝」です。なかでも上に引いた「灯し火の喩え話」に一際惹かれ、印象にも深く、為にこそふとした拍子に思い出すのでしょう。実際のところ、新約聖書を寝床で読んでも指は自然と「ルカ伝」を開き、「灯し火の喩え話」のページを開こうとします。
 斯様に好む箇所で幾度も読み返していながら、この喩え話を理解しているとは到底言い難い。摑み所がないのです。なんとなく分かるな、と思えるけれど、そこから先へ行こうとすると途端に自分の理解に迷いが生じてしまう。
 ルカ8:18「どう聞くべきかに注意しなさい」──なにを「聞く」のか? 神の言葉を「聞く」のである。「灯し火」とは「神の言葉」の譬えである。心も体も悪や偽りに染まることなく自分を律して、いつでも神の言葉へ真摯に耳を傾けられるよう清らかでありなさい。
 その神の言葉をどう聞くか? 「あなたの体のともし火は目である」がゆえにその目に濁りがないならば全身は(ここでいう「全身」が肉体のみならず心までも含めていうているのは、明らかでありましょう)、自ずと輝いている。つまり、心も肉体も悪や偽りなどに染まっていなければ、かの神の言葉を歪曲することなく素直に聞くことができ、その考えや求めを実感的に捉えることができる、というのでしょう。
 これを非キリスト者へ向けて敷衍すれば、こういう話になるのではないか──他人に対して悪意や軽蔑を持って接する者の目は濁ってその表情も心根も卑しく、澄んだ目を持つ者はその逆である、と。あながちこの解釈に誤りはあるまい、とわたくしは自負するのであります(これを考えるときわたくしは、かつて仕事で出喰わした部下の幾足りかの顔と言動を思い出す)。
 が、ルカ8:16-18を読むとき、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」(ルカ8:17)はどうにか合点がゆくとしても、続く「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8:18)については疑問符が浮かんでならぬのであります。
 「聞く」は神の言葉をどう聞くかてふ意味合いであろうこと、既に述べた。ならば、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」は? 神の言葉へ耳を傾ける態度のできていない者を「持っていない人」というのであれば、かれが「持っていると思うもの」とはなにか? 信仰を指すか? 然るにかれは偽りのキリスト者というのか。
 どうもこのあたりが、わたくしには分かりません。この点について触れた註釈書や研究書は幾つもある。が、こちらを納得させてくれる説明にお目に掛かったことはない。わたくしの頭の悪さを棚にあげた台詞だけれど読めば読む程、一度はこの手に摑み取ったのに指の間からするすると零れ落ちていってしまうに似た感覚を味わうのです。難しく考えすぎて堂々回りをしているに過ぎないのかもしれない。けれど、「ルカ伝」が伝える「灯し火の喩え話」は、いま一つその理解にあと一歩及ばぬ感が付き纏うのであります。
 もう一度、新約聖書を部分的にではなく最初から読み通して考えてみよ、というお達しなのか(誰からの?)。まァ、宿題を出されたに等しいのかもしれませんね。
 来年はこの宿題を仕上げるために、新約聖書を読み通してみる(読み返してみる)必要がありそうです。これまでの新共同訳から気分を変えて聖書協会共同訳で読んでみる、良い機会になるかもしれないな……。◆

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