第3559日目 〈【実話怪談】アパートの隣人。〉 [日々の思い・独り言]

 付き合いのある不動産会社の人から聞いた話である。
 管理しているアパートの住人Nさんから或る日、こんな話が出たそうだ。Nさんはそのアパートが新築のときに入居した、20代後半のSEである。
 日頃からふしぎな出来事とはまるで縁がなく、そうした事象に遭遇したことさえいちどもなかった。学生時代、事故物件に2年程住まったことがあるが、その間いちども心霊現象の類を経験したことがないという。
 そんなNさんが件のアパートで暮らし始めて3年が経った、或る秋の夜である。
 時刻は、おあつらえ向きに丑三つ刻だった。
 Nさんは目を覚ました。便意を催したのである。秋、というても冬の気配が日一日と強く感じられるようになっていた頃だ。トイレには行きたい。でも、あたたかい布団から出るのはなかなか勇気が要った。
 が──もはや限界だった。Nさんは思い切って布団から出、足の裏にフローリングの冷たさを感じながら、トイレに歩いていった。
 荷物の多いNさんが借りているのは、2Kの物件である。西南に面したベランダのある洋室を寝室とし、キッチンやバスのある部屋との間にもう1室、LDとして使っている洋室がある。
 Nさんが用を済ませて、さっぱりした表情で布団へ戻ろう、とLDを横切っていたときだ。
 うぅーん、うぅーん。
 人間の唸り声が聞こえた。半分ばかり寝ぼけていたとはいえ、その唸り声が幻聴でもなんでもないことは断言できる。──Nさんは不動産会社の担当者に、そう訴えたそうである。
 うぅーん、うぅーん。
 唸り声は止みそうにない。それに、耳をそばだてていると、唸り声よりも低い声で、なにかいっているように聞こえた。
 これまでにいちどとして心霊現象とかふしぎな出来事に遭ったことがないNさんだったので、きっと隣室の人が悪い夢でも見て魘されているのだろう、と考えて、そのまま布団へ潜りこみ、健やかな朝を迎えた。
 それから2日の間、その唸り声は隣から聞こえてきた。Nさんは大して気に留めることなく、余程厭な夢、怖い夢に毎晩悩まされているんだな、と同情するが精々だった。
 3日目、会社で午後の休憩を取っていたNさんのスマートフォンが鳴った。不動産会社からである。なんでも先月の家賃が残高不足で引き落とせなかったのだそうだ。
 引落口座を別にしているNさんには心当たりがあった。平謝りして、今日会社が終わったら金融機関のATMから振込む旨伝えて、その話は済んだ。
 そのとき、ふと、Nさんは例の唸り声の話をした。
 途端、電話口の向こうの担当者が沈黙した。
 Nさんは嫌な予感に駆られた。え、まさか、事故物件? 怖い、という気持ちよりも、マジかよ、参ったな、という嗟嘆の方が優った、という。
 が、ややあって担当者が告げたのは、Nさんの想像とはまるで違っていた。
 あのォ、Nさんの隣の部屋はですね、先月退去されていて、いまは誰も住んでいませんよ。昼間ならクリーニング業者ってことも考えられますが、もうそれも終わっていますからね。Nさんがその声を聞いているのって、夜中ですよね? そんな時間には誰もいませんよ。鍵もうちとオーナーが持っているだけですし、今日も別件でアパートに行きましたけれど、Nさんの隣の部屋の玄関ドアの鍵が壊された形跡もありません。先月退去された方も新築時から入居されていたので、あの部屋が事故物件なんてこともないですよ。勿論、他の部屋もです。あのォ、失礼ですが、寝ぼけていらしたのでは?
 電話を切って、Nさんはゾッとした。そうだ、隣人の退去の場面を自分も見ているではないか。挨拶も交わした。そうして自分の部屋はアパート最上階の角部屋である。背筋が急に寒くなった。生涯で初めてわが身に経験する、恐怖、という感情である。
 その夜は、アパートに帰るのが怖かった。でも、帰らねばならん。寝床はそこにしかないからだ。
 もう寝ようという時刻、Nさんはドラッグストアで購入した睡眠誘導剤を処方通り服んだ。ノイズキャンセリングのヘッドフォンを付けて、横になった。
 そうして壁掛け時計の針は進んで、丑三つ刻。
 Nさんはまたもや便意を催した。今度は、あたたかい布団の誘惑を断ち切って、すぐさまトイレに立った。ノイズキャンセリングのヘッドフォンはしっかりと装着されたままであるのを、確認して。
 途中、LDに置いたテーブルにぶつかって、Nさんはつんのめった。その拍子にヘッドフォンが床へ落ちた。ちなみにそのときの衝撃でヘッドフォンは壊れたそうである。
 Nさんが拾おうとしたときだ。再び、あの唸り声がNさんの耳を捉えた。
 うぅーん、うぅーん。
 気のせいか、これまでよりも唸り声は大きいように感じる。Nさんはその場にしゃがみこんで、両耳を塞ごうとした。しかし、できなかった。怖さのあまり、体がもうそれ以上動かなかったのである。
 うぅーん、うぅーん。
 もうやめてくれ、いったいなんなんだよ。そうNさんは口のなかで呟いた。住んでいる人がいないなら、この声の主は何物なんだ。事故物件でもなんでもないなら、なんなんだよ。
 うぅーん、うぅーん。
 唸り声は途切れず続いた。誰か(なにか?)に向かって話しているような声も、今日はいつもよりはっきり聞こえてくる。
 Nさんはただひたすら、それらが止んでくれることだけを祈って、その場に崩折れた。
 と、どれぐらいの時間が経ったろう。いつしか唸り声は止み、話し声らしきものも聞こえなくなっていた。
 Nさんは安堵しつつ、こわばった足の痺れを心地よく感じながら、立ちあがろうとした。まさに、そのときだった。
 ギャアッ!!
 耳を聾するような悲鳴が、隣室から聞こえた。断末魔の悲鳴、不意に命を奪われたかのような悲鳴。Nさんの部屋全体が震えたように感じた。
 ──Nさんは短な叫び声をあげて、その場で昏倒したそうだ。弛緩した肉体がもたらした結果については触れない。
 なお、このあとNさんは更新期間を1年以上残して、短時日で荷物をまとめて退去した。隣室の唸り声と悲鳴について、知ることはなにもないまま。

 Nさんが退去した部屋はその後、クリーニングも済み、新しい入居者を募集し始めるとすぐに申込みが入った。例の隣室もあまり変わらぬタイミングで申込みがあり、ほぼ同じ時期に入居した。
 どちらからもふしぎな話は出ることなく、今日に至っている。◆

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