第2755日目 〈書架の整理;シューベルトを残したのは、思慕が優ったが為である。〉 [日々の思い・独り言]

 処分するCDの選定はほぼ終了した。箱詰めも佳境を迎えている。未だ未練ある音盤は箱を封印する前にiTunesへ落とす作業が必要と判断し、勇躍その作業に勤しんできたのだが──ここでヒューストン、問題が発生した。
 未練が未練を呼び、それでも残すを躊躇い、挙げ句どうにもしようがなくなって「このCDを売るかどうかは、もっと冷静になったときに考え直すとしよう」と自分を納得させ、CD棚へ戻すことが1枚、2枚に留まることがなく、気附けば戻した数は15枚程度である(組物は1枚でカウント)。
 棚に戻ったCDをなんともいえぬ、やるせなく情けない思いに駆られつつ眺めていると、それらの共通点を発見できた。即ちこの音盤たち、2箱目のダンボール箱にまだ空間があるのに気が大きくなり、「もっと処分できるベ」と中居君のように呟いて放りこんだものなのだ。
 どうやらiTunesに取りこもう、と考えたのは、かれらがわたくしに再考を促すため仕組んだ罠であったかもしれない。そうしてわたくしは罠に掛かり、取りこみ作業の途中で罪悪感とそれをうわまわる熱量の未練を内へ抱くようになり、……平たくいえば、売るのが勿体なくなって、棚へ戻したのだ。
 CD棚へ帰還した音盤の半分を占めるのは、シューベルトである。どうしてこれまで無傷で残してきた作曲家の音盤を、一部と雖も処分する気になったのか。未練を断つ、という気持ちがそのときは思慕の情に優ったのだ。ほんの一瞬のことであったけれど。が、時間が経つにつれてやはりあの、2008年5月のシューベルトの思い出とお別れすることはできない。悠久の希望は復活したのである。
 加えてたぶん2度と入手できないであろう予感の濃厚な音盤だったからね。サヴァリッシュとバイエルン放送合唱団・交響楽団他の《宗教合唱曲全集》、G.ヤノヴィッツ、C.ルードヴィヒ、フィッシャー=ディースカウ、ジェラルド・ムーア他による《歌曲集;女声及び重唱のための》、グイド・マンクーンとウィーン男声合唱団他の《3声から5声のための男声合唱曲集》、いずれも国内盤。どれだけの買取値になるか知らないけれど、それは対価を犠牲にするだけの価値ある音盤で、愛惜する品物なのだ。
 ……嗚呼、あの年のシューベルト……。その想い出を彩る唯一の人よ、汝は久遠に美しい。
 他に救助された音盤? そうね、VOX-BOXのモーツァルト:ディヴェルティメント集全3巻がある。シェルヘンがウェストミンスターへ残したベルク&シェーンベルクとヒンデミット&ワイル、シノーポリのベルク作品がある。コリン・デイヴィス=ロンドン響のシベリウス交響曲全集が、様々な作曲家による《エレミヤの哀歌》がある。手放す最後の勇気がなく、大げさではなく涙しながら胸にかき抱いて悔悟の言葉を誦しながら棚へ戻した音盤たち、その一部のご紹介は以上である。
 書籍と同じで音盤も、想い出がこびり付いたものは売り払うな、ということでしょうね。今回の一件で身に染みました。いやぁ、それにしても気附くのが売り払う前でよかった。◆

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