第2757日目 〈いったい何人の恩師がこの世を去られたのだろう。〉 [日々の思い・独り言]

 気附けば「恩師」と慕うた人の多くが鬼籍に入られた。
 直接教えを承けた人方だけを数えても、逆にご存命な方の方がすくない。先般追悼のエッセイをお披露目した岩松研吉郎先生然りだが、その直前にフランス文学者の永井旦先生が心不全で逝去されているのを、今日になって知った次第。顧みれば、いつしか師と仰いだ人の過半がこの世に亡い。
 第2700日目の文章の末尾、わたくしは「これまで御茶ノ水と三田、それぞれで教わった師と呼ぶべき方のうち、既に4人が鬼籍に入った」と書いた。後日のエッセイのネタ集めも兼ねて恩師の著書をネットで探している過程で前述の永井先生逝去の件を知り、もしかすると、と思うて調べてみたら、4人どころではない、もっと多くの方々が不帰の人となっていた。それを上に記録した。歳月の流れの速さに驚くばかりだが、なによりも自分の無関心と薄情に驚き、罵詈雑言を投げつけたい気分だ。
 昨年は狂言研究の第一人者であられた小林責先生がみまかられ(今年6月に出版された野村万作『狂言を生きる』に小林先生の追悼文が載る)、更にその数年前には東京新聞で文芸記者を長く務めた石田健夫氏が、芭蕉研究に一心をささげた松尾靖秋先生が、ロシア文学のゼミを受け持たれたサンタクロースのような風貌の佐野努先生が、午後いちばんの退屈な哲学の講義を淡々としかし情熱を持って進められたダンディな風貌の沢田允茂先生が、ベらんめえ口調で心理学の講義をするも体調よろしくなくほとんどが休講で終わってしまった秋山さと子先生が、そうして卒業論文を一年余にわたって指導くださった阿部淳子先生が、陸続とあの世へ旅立たれていたのだ。
 御茶ノ水と三田、それぞれの教室で先生方に教えていただいていたときのノートは、火事をくぐり抜けていまもこの部屋にある。開くと教室の雰囲気や先生の口吻、下を向いてばかりいたッ自分の姿を思い出す。偶さか亡き婚約者の墓参を口実に東京散策を試み、文学者の旧宅や墓に詣でて、作品の舞台を歩いて感じ入ったり、散策にも教室にも出ないときは神保町や高田馬場の古本屋街をほっつき歩いて日本古典文学や幻想文学の本を購い、植草甚一に影響されてペーパーバックを買い漁っては(東京泰文社!!)喫茶店で戦利品を矯めつ眇めつして或るものは読み耽り、荒俣宏や中村真一郎の著書に触発されて洋古書や和本を憧れの目で眺めたりして、まぁそれはそれは灰色だけれど妙に充実した時間を過ごしておりましたね。
 おっと、脱線したようだ。もう書くこともあまりないが、話を元に戻そう。それはさておき、という奴だ。
 振り返ってみれば、あの時代はとても充実していた。バブルが崩壊して内定が前日に取り消された時代、山一証券が倒産し銀行破綻・併合が繰り返されて日本経済がこの先どうなってゆくのか不安でしかなかった、そうして政権も安定しない時代であったが、個人の範疇に留める限り、これ程豊饒にして濃厚なる<知的生活>を過ごした時代は、もしかするとなかったかもしれない。その礎を築いたのは、紛れもなく御茶ノ水と三田で親しく教えを承けた先生方の熱意あふれる講義と、講師控え室(研究室)での談笑である。飽きず面倒がらず青二才の話に耳を傾け、示唆に富むお話をしてくださった先生方には感謝するばかりだ。
 正直なところ、合格していた大学院へ進むのをやめて不動産会社に就職したことが正解であったのか、いまでもわからない。でもまぁ、卒業から何十年と経ったいまでもなお、講義のノートや著作を通して懐かしく回顧し、自分の針路を朧な光で照らしてくださっていることを考えるにつけ、成る程、人生行路に無駄不要なし、と思い新たにさせられるのであった。そうしてまだご存命の恩師たちに、久々に連絡を取ってみようか、とも考える。
 ──今回は直接教えを承けた先生方について書いたが、機を見て、その著書を通して様々教えを被った「恩書」「その著者」について短くも書きあらわしてみましょう。◆

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