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第3706日目 〈書けない書評、読書感想文。〉 [日々の思い・独り言]

 官能小説の書評、感想文、って、どうやって書けばええんやろか? ここ一ヵ月ばかり、頭を悩ませている。「書くぜっ!」とSNSで、軽い気持で発信したのが徐々に重くのし掛かってきた(誰彼から催促されたわけでもないが)。自業自得? そんなつもりはないんだけどなあ。
 大概の書評には、最低限認知された一定のフォーマットが存在して──大なり小なり個人差あると雖も──、官能小説もその例に洩れるものではない。が、その難しさはやはり他に比して格段である。
 「この一冊」の感想文のために、(ジャンル、レーベル不問で)「官能小説」と括られる作物群の書評から、ネット上に間々見られる素人感想文まで、目に触れたものを読んでみたが……うぅん、これはわが手に余る作業であるなあ、と嗟嘆するばかりである。
 お手本にできるような人が見附かればよいが、残念ながらそうした書き手に出合えない。『ダ・カーポ』誌に連載されていた、見開き二ページの新刊レヴューみたく書ければ、と思うが、あれは濡れ場のキモになる箇所の紹介が専らと記憶するから、参考にはならなさそう。
 官能小説専門の書評家というのは居るのだろうか。前述『ダ・カーポ』誌の連載を担当し、官能小説を切り口にした戦後史や絶頂表現の用例をまとめた著書を持つ、永田守弘くらいしか、わたくしには思い浮かばない。その永田氏とて必ずしも専門の書評家、というわけではないのだ……。
 個人のブログや、ノクターン・ノベルのようなアダルト小説投稿サイトで読める書評、感想は検索して見つかっても、今日までコンスタントに──一ヵ月に一本以上のレヴュー投稿がある、と定義する──新しい書評が読めるのは一つもなかった。何年も更新が止まって放置されている。そんな有り様だ。「書評の書き方」みたいな本やWebサイトはあっても、官能小説の取扱いは絶無か添え物程度。
 手本になるような書き手も、少なくともいまのわたくしには、いない。となれば──咨、やっぱり自己流で書くしかないのか。……あれ、要するに、いままで通りってこと?◆

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第3705日目 〈クムラン宗団についての備忘録。〉 [日々の思い・独り言]

 最初にお断りしておかなくてはなりません。本日第3705日目はあくまで覚書の域を出ず、今後の執筆に向けたわが備忘録の役目しか持たない。従って引用が9割、自分の文章が残り1割という結果になるでしょう(結果は……以下本文参照──えへ)。読者諸兄はどうかその点を認識の上、本稿にお目通しいただければ幸いであります。



 死海写本は総称であり、クムラン写本はその一部を成す。クムラン写本とは、新約聖書に言及のないエッセネ派の信徒の集団が死海近くのクムランに移り、独自の教義と生活をした一派(クムラン宗団。クムラン教団とも)がパピルス紙に記した旧約聖書の写本である。クムラン宗団の根城たる修道院は死海の近くあった。
 エッセネ派は洗礼のヨハネ(バプテスマのヨハネ)が属したとされ、イエスも一時期同宗派の人々と生活を共にしたとされる。この宗派がどうして新約聖書のなかで一度も言及されないのか、理由は判然としない。種々の学説があるようであるが、ここではそれに触れない。
 カトリックの司祭で遠藤周作の盟友と謳われる片山洋治はその著『イエスに魅せられた男 ペトロの生涯』(日本基督教団出版局 1996/09)で、エッセネ派の起源についてこう述べている。曰く、──

 エッセネ派の起源については必ずしも明白ではないようであるが、紀元前二世紀にパレスチナをシリアのセレコウス朝の支配から独立させることに成功したマカベア家の指導者たちが王と大祭司を兼任したことに反発した一群の祭司たちが、エルサレムの神殿祭儀に反対し、荒野にひきこもったのがその起源であろうと考えられている。(P30)

──と。
 現時点でなお死海写本について最良の入門書であり、最善の解説書といえるのが、土岐健治『はじめての死海写本』(講談社現代新書 2003/11)だ。
 ここからエッセネ派とクムラン宗団の関係性について述べた箇所を引用する。曰く、──

 クムラン写本は、洞窟の近くの遺跡に住んでいた人々の所有していたものであり、前述のように、後六十八年にローマ軍がこの地域に侵攻した際、写本が敵の手に落ちるのを避けて近くの洞窟に隠されたもの、と一般に考えられる。
 この「クムラン宗団」と称される人々は、他の古代資料(巻末補遺参照)から「エッセネ派」という名前で知られる。ユダヤ教内の一グループに属しており(異論もある)、遺跡は、すでに述べたように、エッセネ派の「本部」とでもいうべき、一首の修道院的な施設であったと考えられてきた。(P90−1)

──と。
 上の文中にある「洞窟」は、死海北西部のクムランと呼ばれる一帯にある沢山の洞窟で、このうちの十一から1946−7年にかけて、三人のアラブ系遊牧民即ちベドウィンがクムラン写本を見附けた場所をいう。また、引用の際削るか迷った「(巻末補遺参照)」だが、エッセネ派に言及するヨセフス『ユダヤ戦記』やフィロン『自由論』等を指している。本書を読むときは、こちら巻末補遺も読み飛ばさぬようお願いしたい。
 クムラン写本に書き写された旧約聖書の文書とは、なにか。これは三系統に分かれるという。同じ土岐の著書からまとめれば、──
 一、「エステル記」を除く旧約聖書のヘブル語原典の写本と、「レビ記」と「ヨブ記」のアラム語訳、及びギリシア語訳。
 二、旧約聖書外典・偽典(一部)のアラム語訳、ヘブル語薬の本文。
 三、一にも二にも属さない、知られていなかった文書。クムラン宗団独自の文書が多い。
──となる。
 写本の執筆年代についてはまちまちであるが、概ね前一世紀前後であろう、と分析されている由。つまりハスモン朝もセレコウス朝シリアもローマの前に倒れて、パレスティナにローマ軍が駐留してかの地を版図に組み入れ、属州化していた時代だ。 
 ハスモン朝といえば、過去にも本ブログで読んだ「マカバイ記 一」と「マカバイ記 二」だ。ハスモン朝成立、ユダヤ人国家としてシリアから独立を果たすまでの通史は前者、「マカバイ記 一」が担う。クムラン宗団は、というかエッセネ派は、そのハスモン朝のやり方に抵抗して分離した宗派である(前掲片山引用文)。
 わたくしは未確認なので土岐の著書からの孫引きだが、クムラン写本のなかには(上の系統でいえば、三番目、になるか)ハスモン朝の或る人物を指して、「悪の祭司」と糾弾したものがあるそうだ。土岐はこの「悪の祭司」を、ハスモン朝の、殊に王と大祭司を兼ねたシモンである、と考える学説のあることを紹介する。
 シモンの事績は「マカバイ記 一」に載るが、エッセネ派のことは勿論、ここにも記載はない。ただ、エッセネ派の分離が事実シモンの指導者と大祭司職の兼任に対する「否」ならば、「一マカ」第14章にそのヒントは求められるかもしれない。
 ユダヤの民は、シモンの指導者、祭司としての活躍を耳にし、両方の職務遂行能力はじゅうぶんにあると判断した。それは「忠実な預言者の出現するまで」(一マカ14:41)という緩い条件附きではあったけれど、

 シモンが総司令官となって聖所の仕事に専念し、内政、外交、軍事および国防に従事する役人を任命する権限を与えられたこと、また彼が聖所の仕事に携わり、すべての民を掌握し、国内のすべての文書が彼の名において発行されるべきこと、また彼が紫の衣をまとい、黄金の飾りを身につけるのを許されたこと、などを耳にしたからである。
 民であれ祭司であれ、何人といえどもこれらのうちのいずれかを拒否したり、シモンの命令に反抗したり、彼の許可なしに国内で集会を催したり、紫の衣をまとったり、黄金の留め金をつけたりすることは、許されない。これらに違反したり、そのいずれかを拒否したりする者は罰せられる。」
 民全体は、これらの決議に従って、シモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した。(一マカ14:42−47)

 こうした国内の熱狂と外国(ローマ)の後ろ盾に信仰の危機を覚えて、エッセネ派はユダヤ教のなかに留まりつつも距離を置くことを選び、死海北西部クムラン周辺地域に移って、独自のユダヤ教を突き詰めていこうとしたのではないか。──わたくしは、そう考える者である。むろん、学習の道を歩いている途中であるからこの考え、今後の知識の獲得と黙考により変わる可能性は否定できないことも、付け加えておく。
 中途半端、消化不良の側面は目を避けられぬ事実だが、悪まで備忘録であるのをもういちど強調して、擱筆する。◆


はじめての死海写本 (講談社現代新書)

はじめての死海写本 (講談社現代新書)

  • 作者: 土岐 健治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2023/11/13
  • メディア: 新書




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第3704日目 〈趣味の問題、生理の問題。──近松闘争について。〉 [日々の思い・独り言]

 近松闘争は既に幾度も起きている。迎えるか、拒絶か。その争点は、対立双方の生理に求められる。好むか否か、だ。是非にも迎えるを望む男と、断固それを拒んで視界に入れたくない女。
 数次にわたる近松闘争は、常に不毛な空気を孕んで、都度両者の表面上の和解で幕を閉じる。歩み寄っても双方の間に火種として燻る以上、闘争は終わらない。おそらくはよくわかっている。
 これまでお目にかかったことのないようなお値打ち価格でいま、『近松秋江全集』全十三巻(八木書店)が売られている。秋江にそこはかとない愛着を抱く男と、その作物に生理的嫌悪感を隠さぬ女の、今回で何度目になるかの闘争だ。
 置く場所ではなく、趣味の問題である。克服できぬ、妥協点すら見出せぬ、折り合い付くこと至難の生理の問題である。
 双方が完全合意する日は来るか。男がすっぱり諦めるにしても、女が三行半をチラつかせて翻意を迫るにしても。
 どうする、男? どうする、女?◆

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第3703日目 〈新たなる聖書読書マラソンに備えた、「ほしい本」の願望。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日ヨセフスのことを書いたあとで書架に詰まった本(溢れて棚前を塞ぐものを含む)と床から隆起した積ん読山脈を見渡して、さて、自分は聖書読書を今後も続けてゆくにあたって他にどんな本を必要とするか、どんな本を揃えておきたいか、考えてしまった。
 幸いなことに邦訳聖書は新共同訳と最新の日本語訳である聖書協会共同訳を始め、新改訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、口語訳、岩波訳、文語訳、バルバロ訳、幾つかの個人訳を手許に置くことができている。テキストは当面これで用が足りるはず。読書マラソンのテキストとして携行した新共同訳聖書旧約聖書続編付き(横組み)のように、使い倒してボロボロになれば同じ訳の新しいものを本屋さんで買ってくるだろうが。
 見渡して、神学や研究書の類が然程目立たないことに気附いた。考えるまでもない。わたくしは敬虔なるキリスト者ではない。聖職者でもない。ゆえに神学書を読んでも却ってチンプンカンプンで、豚に真珠も同然の代物である。宝の持ち腐れ、ともいうな。けれども買えばいちおう中身に目を通すから、よくわからんでも或るとき不意にそのなかの一冊、その内の一節がわたくしのなかへ入ってきて、それを突破口に親しむだろうことは否定できぬ未来といえる。神学書や研究書に関しては、本屋さんの棚の前で目に触れた本を取り出しては立ち読みして、また戻すを繰り返すうちに、ピン、と来るものを感じた一冊を懐と相談の上レジへ運ぶなり後日の買い物とすればよい。まぁ、これまでと同じだ、このあたりは。
 聖職者たちの数多ある著書のなかでは、井上洋治神父の著書は、未架蔵のものあらば能う限り積極的に購入してゆきたい(数冊しか所持していないが)。これまで国内外の聖職者たちの本を日本語で読んでみたが、非キリスト者のわたくしでも感銘を受けるような本は誠に少ない。海外ではウィリアム・バークレーとピーター・ミルワード、国内では井上神父、くらいなのである。新刊書店、古書店の別なくその著書を見掛けたらまずは手にして内容を検めて、その時点でほぼ購入が決定している本を書いている聖職者というのは。
 渡部昇一経由で岩下壮一神父の名を知り、ちくま学芸文庫と岩波文庫から再刊された著書を買ってみたが、ぼんやりとわかるような気のする部分もあるけれどそんなのは極々わずかで、他の文章は流し読みしかしていない。名前だけは既知だが著書を手にする機会ないままでいたところ、偶々読んだ本で紹介されていたのを契機に、名前だけは知っていた人の著書を手にしてレジへ運んで一晩で読みあげその後も短い期間で何度も読んだヘンリ・ナウエンのような場合もある。
 今後の読書に備えて揃えたいのは、クムラン教団、死海写本、グノーシス主義の本や、写本・翻訳の解説、聖人の伝記、良質で使い良い複数の註解書シリーズだ。
 旧約時代、新約時代の歴史書は、これまで意識して拾いあげてきた安本で事足りており、それでも埒があかなければ図書館に頼ればいい。歴史に関しては大抵の図書館で、お目当ての資料に辿り着けるから。いい方を換えればその程度の読み方しかしていないのかもしれぬが、それは非キリスト者の限界として笑ってほしい。
 贅沢をいえば註釈書は、これまでの読書マラソンで図書館から借り出して多大な恩恵に浴した註釈書のシリーズは是非にも手許に置きたいが、これを実行すると収蔵スペースばかりか生活エリアまで本の群れが我が物顔で迫ってくるから、これは夢物語で片附けておこう。
 英語の勉強をやり直したら、英訳のコメンタール・バイブルへ手を広げ、日がな一日それの読書に耽るのも悪くないと思うている。◆

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第3702日目 〈フラウィウスを待ちながら。〉 [日々の思い・独り言]

 遂に意を決してその本を買うことにした。その本、ではなく、文庫で出ているその人の著作と、その人について書かれた一冊、というた方が正確である。決断まで実に一年半を要した。
 「日本の古本屋」サイトに出品(登録)されるたびに間もなく売り切れ、しばらくするとまた登録/出品→時絶たず売り切れる、が繰り返される。状態など出品店舗によって異なるけれど、全巻揃が目に触れる機会はゆめ多くなく──。
 購入の覚悟を決めるまで一年半もかかったのは、迷っているうちに売り切れてしまったから、それが繰り返されたから、ばかりではない。こちらの求める状態の全巻揃がまったく現れなかったためでもない。お値段、なのである。
 具体的な金額は書きたくない。ただ文庫一冊で数千円、全三巻、全六巻の揃となれば必然的に数万円、の計算となる。実際過去にわたくしは、全六巻揃帯一部欠・状態並・書込み破れ濡れ皺等なし、が36,800円で売られているのを見附けて、早々に諦めたのを覚えている。
 とはいえ、その本は今後の読書生活、執筆に於いて必要な参考文献となるのがわかっている。図書館で都度借りればよい。そう自分を納得させてしばらくはその本のことを考えずに過ごしたけれど、やはり手許に置いて、折に触れて読む生活を思い描いているのだった。
 斯様に逡巡した末、遂に意を決してその本を買うことにした。その本の著者の名を、フラウィウス・ヨセフス、という。後一世紀のエルサレムに生まれて第一次ユダヤ戦争を生き延び、ローマ帝国に身を寄せた人物である。『ユダヤ古代誌』、『ユダヤ戦記』、『アピオーンへの反論』、『自伝』の著作を持つ。
 これを書きながら到着を待っているのは、『ユダヤ古代誌』全六巻と『ユダヤ戦記』全三巻、(前二書の訳者でもある)秦剛平『ヨセフス』の計十冊で、いずれもちくま学芸文庫から。
 内容を簡単に述べれば、『ユダヤ古代誌』は旧約聖書の天地創造から後66年までのユダヤ民族の歴史で、『ユダヤ戦記』は後66-70年の第一次ユダヤ戦争の記録である。秦剛平の著書はヨセフスの生涯や著作の執筆背景、どのようにしてその著書がキリスト教陣営に取りこまれていったか、近現代の翻訳や校訂本のことなどの話題に触れる。ヨセフス研究、ヨセフス自身やその著作についてなにかを書き、なにかを発言するにあたってかならず繙くことになるであろう。
 そうしたフラウィウス・ヨセフスの本の到着を待ちながら、本稿を書いている。
 過去にたびたび表明してきたようにわたくしは、キリスト者ではない。わたくしにそちらへの信仰は、ない。従って、就中『ユダヤ戦記』をキリスト者の如く「キリストの証し」の書として読むことも、ない。
 とはいえ、足掛け八年実質七年の聖書読書と、プロテスタントの亡き婚約者と奥方様を経由して、聖書の教えや物語、文言などは自分のなかへ(確実に)入ってきている。そうした意味では時として、キリスト者──キリスト教陣営と同じようなスタンスでヨセフスを読むこともあるだろう。それでも信仰を基にした読み方はしない──そも結局のところ、『ユダヤ古代誌』も『ユダヤ戦記』も、イエス時代に生きて第一次ユダヤ戦争に参加した経歴を持つ、文才あるユダヤ人の手に成る歴史書なのだ。
 わたくしは信仰ベースではなく、歴史ベースでヨセフスを読む。ローマを中心とした地中海世界について、キリスト教の発展過程について、クムラン教団やエッセネ派について、その他様々のことについて、考えたり書いたり発言する際の必携文献として読むだろう。
 いつか書架に備えたい。そう望んでいたヨセフスの主著二つと概説書が、思いの外安価で売られていたのが背中を後押しし、この一週間で入手するに至った。……それでも『ユダヤ古代誌』は全巻揃で一万円台後半でしたがね。
 イエス時代の地中海世界の歴史を学んだり、ユダヤ教とキリスト教について理解を深めてゆくにあたり、ヨセフスが手許に、書架にあるのは、とても心強いことではないか(個人の感想です)。
 清水の舞台から飛び降りる思いで買った。大げさかもしれないが、そんな気持ちで購入ボタンをクリックした。サイト内での古書店からの連絡によれば、いずれも既に発送済みとのことである。◆
──劉慈欣『三体』全巻が揃って、年末年始の愉しみを確保したのを喜ぶ日に□


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第3701日目 〈告知は早いに越したことはないでしょう。〉 [日々の思い・独り言]

 まだブレイクする前のスティーヴン・キングがラジオかなにかに呼ばれて答えた台詞が、その後しばらくの間、かれの執筆スタイルの一部として伝えられてきた。曰く、「誕生日と独立記念日とクリスマスは(書くのを)休む」と。
 21世紀になってアーティストハウスから邦訳が出た『小説作法』でキングは、「なにかをいわなくちゃいけない」からそう答えたのだと白状した(P175-6 池央耿・訳)。嘘っぱちさ、本当はそんなのに関係なく、毎日──365日──書いているよ。これが現実であるらしい。
 さて、翻って本ブログ。キングの小説とは雲泥の差どころかそれ以上の、比喩さえ思い着かぬ程異なる本ブログだ。心に浮かびゆくよしなしことをただそこはかとなく書きつけるばかりの文章の集まりである。キングとの共通点を無理矢理一つだけ見出すとすれば、読者諸兄の目に触れぬ日が仮にあったとしても、それは毎日書いている、という一点に過ぎない。
 が、その辛うじて見出せる共通点も、凡人にしてこれで稼ぎを得ているわけではないわたくしは、年に何度か堂々と、公然と、打ち捨てる日が出来する。長くお読み下さっている方は、「ああ……そういうことね」と薄々お察しか。最近になって読む機会を得たという方、もし居られるならばもしかするとあなたは初めての体験となるか。
 ここで表題にあるように、告知をさせていただく。
 来る11月23日はわが安息日となり、本ブログの更新はお休みとなる。「家族の日」なのである。それがゆえのお休みだ。
 どうか読者諸兄よ、あらかじめお伝えしたわたくしの良心に免じて、笑ってご理解くださいますよう──。◆

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第3700日目 〈杉原泰雄『憲法読本 第4版』再読、始め。〉 [日々の思い・独り言]

 杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読を始めた途端、これは腰を据える必要があるゾ、と覚悟した。再読の必要は、最初に読んでいるときから痛感している。シャープペン片手に、じっくり、読み直す。そう望み、今日(昨日ですか)から再読を始めたのだが、──
 「Ⅰ 現代社会と立憲主義」、40ページを三時間弱かけて読み返した。定規をあてて傍線と本文上の横線を引き、余白や行間にトピックや所感、疑問等書きこんでいたら、そんな時間が経っていた。前段階として、読みながら考えていた(考えながら読み進めていた)のは勿論である。
 そんな風に再読を進めながら、あれ、としばしば思うたのは──俺はずいぶん前にも同じことをやっていた覚えがある。一つの書物を、いつ終わるのかまったくわからぬまま読み進めていたことが、あったよな。
 程なく疑問は氷解した。いまなお本ブログの中核を成す、聖書読書ノートを粛々と進めていた頃の記憶が、脳裏を過ぎっていただけである。
 聖書のときも下線を引いたり書きこんだりしていた。何年も持ち歩いたせいもあり、ページの角っこが丸く潰れている。表面も小口も天も地も、手垢やコーヒーの染みで汚れている。ノドの部分が割れてページが剥がれ、修繕している。ボロボロとはいわぬまでも、読みこんだ形跡が外にも中にもしっかり刻印された一冊と化している。流石に『憲法読本 第4版』が同じになるとは思えぬが、似た外観にはなるかもしれない。中身に至っては……大同小異、か。
 ただね、シャープペンを片手にしての再読作業がしばらく続くと想像すると、思わず、加藤恵嬢みたく「なんだかなぁ」とぼやきたくなってしまう(あんなに可愛らしくないけれどね、当然。おはらななかなら話は別でしょうが)。
 しばらく自由な日──というか拘束の極めてユルい日──が続く。怠けることなく『憲法読本 第4版』を、シャープペンと消しゴムをお伴に読み進めておこう。ノートへの書き写し、自分のコメントなどは再読が終わったあと、一気に行う予定でいる。が……残ページ2/3で収まるか?◆

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第3699日目 〈「《シェイクスピア読書ノート》のためのメモ」のメモランダム。〉 [日々の思い・独り言]

 暇を見附けて耽っているのが、シェイクスピアの戯曲の版本、出版に関するメモ作りであります。何事もなければいまくらいの時季から、一ト月に一作程度の進みでシェイクスピアの戯曲を、ほぼ確定した執筆順に読んで、作品の背景や内容、感想、鑑賞ポイント、基にしたオペラや声楽曲の紹介など何回かに分けて書いていたのですが、障り事慶事などいろいろあって未だに取り掛かれていません。現時点では一年先延ばしての実施(なんだか消費税増税みたいですね)が、可能性としてはかなり濃厚……。
 ただ、これを好機と捉えなくてどうするか、という内心の声もある。計画破棄ではなく計画延期なのです。開始は来年の仲秋から晩秋にかけてかしら、ともぼんやり考えている。いずれにせよ、一年の猶予ができた。ならばこの猶予期間を、シェイクスピア作品を読むための準備に充てればよいではないか。そう考えての、暇を見附けてのメモ作りなのであります。
 具体例として、戯曲の版本、出版について触れました。シェイクスピアを読んでいると、たいていは、歴史物であれば作品の時代背景や舞台、人物相関等の話、シェイクスピアの生きた時代の点描・同時代の演劇事情などの話、版本や出版にまつわる話、が出てまいります。最後に挙げた、そうしていまメモを作っている版本に関してはいい換えれば、翻訳の底本や本文批評の話題にもなります。
 わたくしが最初にこの点に取り組んだのは勿論偶然でしかありませんが、一方で「書誌」というものに関心があり、日本のことではありますがそちら方面の知識が多少とはいえあり、西洋書誌については日本のそれ以上にズブの素人ながら三田時代に勉学でも仕事でもわずかばかりの関わりを持った高宮利行先生の著作を始めとして幾人かの専門家の著訳書を好んで読んでいた、まァ一種の親しみがありましたから──と、幾つもの要素が重なって為された必然の運動というてよいかもしれません。
 さりながら、この版本や出版に関しては、知識の獲得も咀嚼も定着も、ましてや自在なアウトプットも、そう簡単にはいきません。『ビブリア古書堂の事件手帖』最終巻はシェイクスピアのファースト・フォリオを巡る一巻でしたが、よくぞここまでわかりやすく説明して物語に落としこめたな、と感心せざるを得ない程に、わたくしは最初このあたりをどうメモにまとめてよいか、わからないでいました。
 が、読書百遍意自ずから通ず、とか、念力岩をも通す、と申しましょうか、数日とはいえ空き時間はずっと資料や文献に目を通したり落書きのような覚書を書いていたら、だんだんと疑問の焦点があきらかになり、回答となるような(信頼してよいであろう)記述に行き合うことができました。回答はずっと目の前にあったけれど他に埋もれて、目を暗まされていたのです。
 そんな立ち止まりこそあれ、シェイクスピア戯曲の版本──クウォートやフォリオの分類、出版エトセトラ──に関しては、わかる部分も増えてきた。定着して活用できるようになるまで時間はかかるでしょうけれど、取り敢えず最初の山は越えられたかな、と、まだ多少とっ散らかったメモを前にして胸を撫でおろしているところであります。
 研究者でも専門家でもないのだから、こうしたメモ作りは本来ならば不要なのかもしれません。が、こうした外堀的知識であっても、直接間接の別なく文章に反映しなくても、或る程度の知識があって書くのとそうでないのとでは、出来上がったそれを較べてみるとちょっと違うように思うのであります。それは正直なところ、聖書の読書ノートを書いていた際、ずっと付きまとい、考え続けた点でもありました。
 もうすこし版本や出版のメモに取り組んで一応のメドが付いたら次は、英国史のお復習いです。まったく抵抗ない分野と雖も、こちらもまたメモの作成には時間を要しそうです。◆

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第3698日目 〈トルストイはどこに行った?〉 [日々の思い・独り言]

 ついこの間、ようやく時間が取れたので新刊書店へ久しぶりに行って、長いこと買うを先延ばしにしていた海外小説の残りの巻を、がつっ、と摑んでレジへ運びました。それなりの重さが指先で感じられる。それは一冊出るたびに買うことせず、その時その時の事情で諦めていた(優先順位を下げていた)、気持の重さでもありましたでしょう。
 とまれ、光文社古典新訳文庫から出ていて無事完結したトルストイ『戦争と平和』第四〜六巻を購い、帰り道の途中で寄ったスタバでぱらぱら目繰って閉店まで過ごしたのでした。そう、そのときはね、先の三巻は自宅にあると信じて疑わなかったんですよ。だって、数日前に並んだ背表紙を部屋の一角で目にしたばかりだもの。
 全六巻が揃った。未読か既読かさておくとしても、せっかく揃ったんだから並べてあげたいじゃないですか。で、後半三巻を摑んで部屋に行き、さて最初の三巻を山の中腹から引っ張り出して並べてみよう……と先日目にした場所へ視線を向ければ──あれ、なんでないんだ?
 いや、マジで姿を消していたんですよ。本って夜中人目を避けて勝手に増殖するだけでなく、居心地が悪くなったら挨拶も無しに引越までしちゃうんですかね? そんなアホな疑問が、本当に脳裏を過ぎったんです。
 もう遅い時間になっていたし、疲れた体で第一〜三巻まで探して本の山を崩すのもイヤだったので(面倒臭かったので)、そのままベッドへ直行した。けれど、奥方様の寝息を聞きながら横になっても考えているんですよね。どこに行ったんだろうか、どこへ姿を消したんだろうか、と。
 休日。つまり今日(今日って、いつの”今日”なんでしょうか?)。夕食の仕度まで時間がある午後の一刻、思い切ってアタリを付けた場所から本の山を崩し、道草を喰う場面もあったとはいえ、捜索の手を休めたりサボったりすることはなかった。ダンボールに仕舞いこんだ覚えだけは全くないので、必然的に捜索範囲は積ん読本山脈と棚の一段、二段に絞られる。
 ──が! 見附からないのです。
 二時間は要したでしょう。これ以上の捜索は意味なしと判断して、切り上げました。後日の再開も、ない。最後にかれらの姿を見てから捜索開始までの間、ダンボール二箱分の文庫を処分しているから、間違ってそのなかに入りこんでしまったのかもしれない。その疑念は否定できない。が、有るか無いかのそれ一作のために売却を一旦中止、荷物を戻してもらうのも難儀だ。
 もうこうなったら、アレだな、「探すより買った方が早い」だ。
 正直にいうと、まだ解説くらいしか読んでおらず本文には、さーっ、と目を通したに過ぎない。読んだ本を誤って処分してしまったときのダメージは大きいけれど、未読もしくはほぼ未読状態の本であればそれも大したことではない。すぐに癒えて、忘れる。
 というわけで、光文社古典新訳文庫版トルストイ『戦争と平和』、第一巻と第二巻そうして第三巻を新刊書店で、明日にでも買ってきます。
 いやぁ、しかし、参った。あるはずのものをあると思いこんで捜し回るって、こんなに疲れるもんなんだね。◆

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第3697日目 〈三門優祐・小野純一編『アーカム・ハウスの本』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 アメリカ中部ウィスコンシン州ソーク市に、アーカムハウスという出版社がある。生前殆ど知られぬまま亡くなった怪奇小説作家、H.P.ラヴクラフトの著作を出版することを目的に、親しく文通していたうちの一人、オーガスト・ダーレスによって設立された出版社だ。
 少部数限定で、HPLの作品集以外は再版しない方針を貫いていたので、アーカムハウスの出版物は現在でも古書価が高く、その性質ゆえに時々ここの本を題材にした古書ミステリ、古書ホラーを見附けることができる。
 三門優祐・小野純一編『アーカム・ハウスの本』(盛林堂ミステリアス文庫 書肆盛林堂 2023/03)は書誌に特化して余計な説明を一切省いた潔い一冊である。購入想定読者にしてみれば、アーカムハウスとはどのような出版社であるか、百も承知のはずだからこの潔さも却って美点となる。
 が、もし本稿を目にして興味を持たれた(あまり怪奇幻想小説に関心を持ってこなかった)方があれば、図書館やwebサイト「日本の古本屋」で、那智史郎・宮壁定雄編『ウィアードテールズ 別巻』(国書刊行会 1988/02)を探してごらんなさい、とお伝えしたい。或いは、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』1973年7月号の仁賀克雄「アーカムハウスの住人たち ① オーガスト・ダーレス」をお読みになってみてください、とも。
 仁賀克雄氏といえば『アーカム・ハウスの本』小野純一「あとがきにかえて」に拠れば、本書刊行の萌芽はどうやら、生前の仁賀氏から依頼されて行った蔵書の査定にあったようである。
 前述の連載エッセイや著書の端々で言及されるところから窺えるように、氏の蔵書にはかなりの量のパルプマガジンやミステリ、怪奇幻想の洋書(なかには切り裂きジャックの資料となった書籍や資料もあったろう)があった。そのなかに、数十冊のアーカムハウスの刊行物がその一角を占めていた、というのである。ただそれらは、仁賀氏の希望に従って歿後、古書交換会で様々な古書店に落札された由。
 仁賀氏歿して5年後、というから、2022年のことであろう。古書店主でもある小野氏が買取りした本のなかにアーカムハウスの研究書があったことで、書誌刊行は具体的な計画となる。Re-ClaMの三門優祐に相談して協力を取り付け、万全を期すため新たに資料を取り寄せて成ったのが、本書『アーカム・ハウスの本』である。現時点ではおろか、少なくとも向こう15年くらいはこれに優るアーカムハウス書誌は現れまい。それくらいクオリティが高いのだ。
 ここまでアーカムハウス刊行物の書誌部分について、まるで触れずに来た。
 というのも、いったいどうやって、顔を合わせて膝突き合わせてワイワイやりながら語らうならともかく、こうして文章で、しかも特定分野に(いまは)特化していない本ブログで──つまり、関心ある人が感心ない/薄い読者が圧倒的に多いなかで、書誌の感想文をどうやって綴ってよいのか、未だに迷っているのが本音だ。
 書影や収録作品、刊年や出版部数、価格といったデータが、煩を厭わず細かく記述されている点は、とてもありがたい。よく作られた書誌は眺めているだけで何時間でも過ごせるのだ。こうした本の詳しいデータを眺めているだけでわたくしは蕩けるような幸福を感じる。と同時に、この200ページになんなんとする書誌の作成に打ちこんだ三門優祐氏の粘り強さと誠実さを思うて感謝と讃美を内心送って平伏する……。
 節目の年ごとに刊行されてきた社史や、ダーレス自著100冊到達を記念してこれまでの刊行物の情報を集めた『100 Book by August Derleth』(1962 P79)、同業作家・HPLスクールの作家たちによる『Lovecraft Remembered』(Peter Canon編 1998 P173-5)、Milt Thomas『Cave of a Thousand Tails』(2004 P181)あたりは、社史を除けば本書で初めてその存在を知った本で、非常に食指を動かされるものなので是非にも読んでみたいが、やはり入手は困難そうである。
 架蔵する本が載るのを見るのはマニヤックな性癖だろうが、むかしの北沢書店で購入したHPLのエッセイ集(初期習作も載る)『Miscellaneps Writings』(1995 P169-71)、アーカムハウス初期の刊行物であるJ.S.レ=ファニュの作品集『Green Tea and Other Ghost Stories』(1945 P29-30)などは幸運にもいまよりはまだ英語の読解力があった時分に手に入れて読んだ、幸せな想い出も存分に詰まった手放す気なんて毛頭無い一冊となっている。
 一方で、HPLの文業でいちばん好むのが書簡だったせいもあり、いつの日か全訳を──と執心していた時期に買い揃えた『Selected Letters』(全5巻 Vol,1;1965/P93, Vol,2;1968/P105, Vol,3;1971/P124, Vol,4&5;1976/P137)はもうすっかり読まなくなってしまったけれど、いまも架蔵するHPL関係の本と一緒に、和書洋書の別なく突っ込んだ棚の一段に納まっている。あのざらっとした手触りの、厚手の本文用紙の感触。なつかしいなぁ。
 巻頭の1939年から2010年までの年ごとの刊行リストと、巻末の著者別刊行リストが索引になっているのが嬉しい。地味ではあるが、このように配慮の行き届いた索引があるのとないのとでは、レファレンスブックとしての価値がまるで異なる──雲泥の差、なのである。『アーカム・ハウスの本』がどれだけ丁寧に、入念に作られたか、それはこの索引を見ればよくわかる。この利便性たるやなかなかに良し、という具合だ。索引を軽んずる或いは杜撰なレファレンスブックに生命力なし。商業出版であろうと自費出版であろうと、この原則は崩れまい。
 書誌は研究の要である。書誌は購書の礎である。書誌は研究や購書のサポート的存在ではない。書誌はそれ単独で一個の、独立した書物でなくてはならない。弘文荘のカタログが販売目録の域を超えていまなお書誌として一級品であり続けているのは、その記述に書誌作成者の見識と経験が裏打ちされているからに他ならない。『アーカム・ハウスの本』が底本としたLeon Nielsen『Arkham House Books A Collector’s Guide』と、資料としたS.T.Joshi『Eighty Years of Arkham House A History and Bibliography』は未見のため発言する資格はないが、『アーカム・ハウスの本』の仕上がり具合から判断して、上でわたくしが申し述べた書誌としての理念と資格はじゅうぶんに備えた本なのだと思う。
 叶うならば、これらの日本語訳と、大瀧啓裕がラヴクラフトの翻訳に取り掛かる際重宝したというダーレス著『アーカム・ハウスの三十年』(「これにはこの特異な出版社の沿革史だけではなく、同社及び姉妹社から刊行されたものすべての詳細なデータも記載されており、何を手に入れればよいかがはっきりわかった。」『翻訳家の蔵書』P160 東京創元社 2016/12)──『Thirty Years of Arkham House : 1939-1969』(1970 P111)──の日本語訳が実現したらと願わずにはおれない。勿論、海の物とも山の物とも知れない素人翻訳家ではなく、怪奇幻想の翻訳を手掛けたことのあるプロの翻訳家の手で。
 優れた書誌はどれだけ時代が進んで新たなものが生まれようとも、けっして古びたりはせず、いつのときでもスタンダード、ポラリスとしてあり続ける。かりに、新しいものが出てきたとしても、本書『アーカム・ハウスの本』はそんな位置を占める一冊であるだろう。◆

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第3696日目 〈上林暁『命の家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 家族の前では、人目ある所では、読むこと憚られる短編集だった。
 上林暁『命の家』(山本善行・編 中公文庫 2023/10)である。
 著者の妻は戦前精神を患い戦後すぐに亡くなった。上林は空襲の激しくなる時期にも東京に留まり、入院生活を送る妻を見舞ってそばに居続けた。そんな日々の産物が、代表作「聖ヨハネ病院にて」をはじめとした〈病妻物語〉だ。本書はその病妻物語をまとめた一冊。然れどこのカテゴリーに入る作品はまだまだある、と編者はいう。
 いまでこそ伴侶を得、子宝にも恵まれたわたくしだが、十代の後半に婚約者を病気で亡くした。その傷が、その哀しみが、その喪失感が癒やされることも、他のなにか(だれか)によって埋められることはなかった。からっぽの心を抱えて生きていたのだ。
 そんなじきに、上林の小説を初めて読んだ。講談社文芸文庫の『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』である。あのとき以上に病妻物語の諸編はわたくしの心を刺激する。突き刺さってくる。そうして、抉ってくる。血が流れて瘡蓋になるまで時間を要す。奥方様を得た代価のようにしてゆっくり慰撫された哀しみや傷が、その存在を忘れるな、と警告してくる如き痛みを覚える。
 忘却してゆくは咎か? 想い薄れることは罪か? 奥方様と結ばれ子を得たるは万死に値するとかや?
 ──『命の家』は、上林の妻が発症して病院に運びこまれる「林檎汁」で始まり、著者のうら寂しい生活や妻の容態をつぶさに描いた諸篇を経て、妻亡きあとを描いた「弔い鳥」や「聖ヨハネ病院再訪」で閉じられる。
 読み進めてゆくうちに、家族の目を避けて読むようになった。夜更けの片隅で、木枯らしの夕暮れに、鈍痛覚える足を引きずり外を逍遙したりして。──だんだんと追いつめられていったのだ。これまで封印したり、目を背けたり、弱まっていた亡き婚約者への気持ち、思い出、声や姿が、一篇読了するごとに徐々に生々しいものとなってゆき……闘病の末看取る人亡く逝った妻への慟哭に充ちた「嬬恋い」で、遂にこれまでこらえてきたものがみな爆ぜた。これを読んでいることに奥方様が気附いたのは、そのときである。
 ……わたくしには、私小説作家に惹かれる気質があるらしい。花袋も秋江も問答無用で好きになった(むろん、かれらの文業がそこに限定されたものでないことは百も承知)。ここに、上林暁が新しく加わった。文章に猥雑さのないのがよい。吟味された言葉で書かれた、磨き抜かれた文章である。それゆえに著者の思いがじっくりと、さらさらと、読み手の心に染み通ってゆくのだろう。時間がどれだけ経ったとしても、読者の心のどこかで静かに息づくのだろう。
 後年上林は、脳溢血(脳出血)に倒れた。が、様々障害を抱えながらも歿するまで筆を執り続け、幾冊もの作品集を世に送った。脳出血とは、脳梗塞と同じく脳卒中の一病名である。上林は二度目の脳出血で後遺症が残ったそうだ。脳梗塞の再発率は50%と聞く。二度目に怯えるわたくしの琴線に触れた点であるのは、もはや否応なし、である。そういえば小山清は脳血栓が原因で失語症を患った。脳血栓も脳梗塞の一種だ。かれらを好きなのは、まさか再発に備えてのこと? いや、まさか。
 「上林暁は、自分に向かってきた悲惨な出来事を、闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした。このことが読むものにとって、大きな救いとなっている」(P380 「編者解説」)
 サウイフフウニ、ワタシモナリタイ。
 戯れ言はともかく、「闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした」──この点こそが、上林暁と他の私小説作家を明らかに区分する一線であるかもしれない。この点こそが、編者を上林文学にのめり込ませて、近年は何冊もの上林作品集を編むに至る根源かもしれない。
 病妻物語は『命の家』に収まる以外にもまだある、という。「もしこの『命の家』が多数の読者に受け入れられたら、続篇でもう一冊出して病妻物語完全版を作りたい」(P374 同)とは編者の願い。
 山本さん、中公文庫編集部さん、もう一冊、出してください。買います。握玩・愛読します。◆


命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/10/24
  • メディア: 文庫




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第3695日目 〈こんな読書体験も、たまにはある。〉 [日々の思い・独り言]

 本文たかだか300ページにもならぬ連作短編集であっても、やっとの思いで読み終え疲労の溜め息吐き、まさしく時間の浪費に憤慨して、床に叩きつけてあまつさえ踏みにじりたい本って、あるんだよな……。
 秋以後に新しく読んだ単著の小説は、みな肩すかし、落胆させられるものばかりだ。どこの出版社からいつ出た、誰のなんという小説なのか、それは伏せよう。武士の情け? 否、諦め──倦厭だ。
 このあとは杉原泰雄『憲法読本 第4版』に戻るが、かねてからの予定通り並行して、積ん読山脈のいちばん上でこれ見よがしに待機している北村薫『雪月花 ──謎解き私小説──』(新潮文庫 2023/01)を読む。楽しみである。
 あれ、北村薫の小説は、『太宰治の辞書』(創元推理文庫 2017/10)以来? まさか!◆

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第3694日目 〈日本人のキリスト教文学・導入部。〉 [日々の思い・独り言]

 小山清の随筆「聖書について」にある。曰く、──

 聖書は晦渋な書物ではなく、キリストは難解な人物ではない。「赤と黒」を読めばジュリアン・ソレルが解るように、新約聖書を読めばキリストが解るのである。ジュリアン・ソレルは素晴しい。けれども、それよりもはるかにキリストは素晴しい。聖書をキリストを主人公とした小説として見るならば、古来のどんな小説のどんな劇の主人公も、キリストの前には色褪せてしまうであろう。四福音書の主人公ほど魅力に富んだ、私達の持続的な関心を繋ぐ対象はないのである。(『落穂拾い・雪の宿』P331 旺文社文庫 S50[1975]/12)

──と。
 首肯するよりない。四つの福音書と「使徒言行録」、パウロ書簡、公同書簡を読むと、著者の立場、キリストとの距離や関わりの深度、著者の思想等によって把握できるキリスト像に多少のブレはあっても、虚心に無垢に、されど能動的に新約聖書を読んでゆくと、読者の眼前には朧ろ気にでもナザレのイエスの姿が立ちあがってくることだろう。
 しかし、日本人にとってイエス・キリストは未だ異教の神扱いで得体の知れぬ、歪んだ捉え方をされているように映る。小山が力説するように、新約聖書(ここでは共観福音書と「ヨハネによる福音書」を指すが)はイエスの伝記小説として読むことはけっして邪道でもなんでもない。古典はあらゆる読まれ方を可能にする。信仰の書物としてよりも、歴史文書としてよりも、その方が一般的には親しみやすく、ハードルも低くなるだろう。
 が、あくまで(すくなくとも)四つの福音書を読むことに──それは取りも直さず「新約聖書」という書物を手にすることだ──抵抗のない人に限った話である。信心ある人、興味ある人、好奇心に素直な人、教会に行ったことある人。それくらいではないか。新約聖書を繙き福音書へ向かう人は。
 でも、そうでない人々──潜在的読者──の方が圧倒的に多かろう。そうした層をターゲットにした、福音書をベースにしたフィクションが世に幾らも存在するのは、なかなか一歩を踏み出せずにいる/手を伸ばせずにいる人々がある一証左に他ならぬ。ウォルター・ワンリンゲンやF.W.クロフツ(そうだよ、あのクロフツだよ)の小説が翻訳されて巷に出回っているのは、単に著者のネームバリューや題材の珍しさにばかりあるばかりではない。つまり、心の障壁を(取り除くことはできないまでも)低くするのに一役買っているのだ。
 とはいえ、先程も触れたように、日本人にとってキリスト教は、その本質は、その中核は、イエスについて諸共馴染み薄い外国発祥の宗教であり、捉え難い部分ある、知識の偏った異教でしかない。日本人のなかに染みついて離れぬそんなキリスト教感は、おそらく江戸時代からどれだけ進歩したか怪しいものである。
 うわべの祭事だけ取り入れて実態はネグレクトされてきた〈日本化されたキリスト教〉。非キリスト者が祭事を受容することで〈骨抜きにされたキリスト教〉。日本人とキリスト教の関係は、馴染み深くあるように見えてその実著しく懸け離れている。それはフィクションを例にしても、端的に理解できそうだ。
 日本の小説、戯曲、詩歌でキリスト教をベースにした……いわゆる「キリスト教文学」とカテゴライズされる作物は、果たしてどれだけあるだろうか。日本人の精神風土、魂の領域もあってか、その数はどうしても限られてしまう。まともな形で題材にした作品を探しても、そう多くはない。どうも日本の小説家は(就中1980年代以後にデビューした衆は)宗教的要素・教養を自然な形で作品に落としこみ、昇華させる能力に欠けるようだ。誰何してみて名を挙げられるのは一人としていない。それゆえか、それ以上前の世代の作家となる小川国夫と遠藤周作、高橋たか子、三浦綾子や曾野綾子の存在がやたらクローズアップされて、作品群を無視するのがおよそ不可能なのは。
 そのあたりの事情と背景を推理し、小川や遠藤、髙橋や三浦たちの作品について駆け足ながら述べること可能であればこんなに愉しいこともないのだが、いざ作業に取り掛かろうとして、とてもじゃないがいまの自分の手に余る作業であると気附かされた。
 為、これは後日の宿題とし、その間にかれらの作品やエッセイを改めて読み返したり、これを契機に新しく手にしたりして、メモを作り実際の筆を執りたい。本稿、尻切れトンボの感は否めぬが、無理をして箸にも引っ掛からぬ代物をでっちあげてお目汚しするよりはマシだと思っている。ハレルヤ。◆

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第3693日目 〈神保町の秋を愛す。〉 [日々の思い・独り言]

 つい数日前、〈東京には行かない。〉と仮にタイトルを付けた一稿を草してまだ内容が記憶に残っているうちから、多摩川を越えて中央線沿線の古本屋まで行ってきた。Webサイトから注文した、その古書店が自費出版及び委託の自費出版物穂を引き取りに、である。
 最近は(仕事以外で)滅多に東京へ行くことがないから、引き取りに行く、というのを口実に、帰ってくる途中神保町に寄り道しようかな、という魂胆が実はあった。もうこの十数年、ご無沙汰している神田古本まつりも会期真ん中のウィークデイとあれば人混みも緩和しているだろう、然程不快の目に遭うこともないだろう、と思いながら。
 そうして──於神保町。
 21世紀になろうとしている頃、三井不動産が神田一丁目南部地域の再開発組合と一緒に大規模造成を行い、現在その地に建つのが神保町三井ビルディングと東京パークタワー。当時販社にいた関係でわたくしも当時プロジェクトに参加し、M/S住戸引渡しまで携わったことがあった。
 そんな意味でわたくしも神保町一帯の再開発に関与した身だから、学生時代から神保町の古本屋街・中古レコード店・ご飯屋さん(含喫茶店)に出入りしてきた身であるゆえ、相半ばする感情を心の裡に飼うのだが、今日行ってみたら三省堂書店は勿論、さくら通りの角っこにあった巖南堂のビルも解体されて四囲は工事壁に囲まれて、これまでは自分の立っている場所からは見ることの不可能だった隣ビルの薄汚れた壁面や夕刻を迎える仕度を始めた東の空が眺められる。心が乾いてゆく。初めてここを訪れた高校二年生から時の流れが止まったかのようにずっとそこに在り続けた店舗が、建物ごとこの世から姿を消してしまった現実の光景には、ちょっと受け容れ難いものを感じる。
 街は変わってゆく。自明の理である。不動産会社の営業職を通して、自分も街の変化に手を貸した。生まれ故郷も20世紀最後の年に始まった大規模再開発によって往時の風景はほぼ一掃され、いまなおそれは微々と続いている。街は変わってゆく。厭になるくらい経験してきた。にもかかわらず、神保町はそうした時代の流れの要請からは無縁と思いこんでいた……。
 三省堂書店や巖南堂のビルばかりではない。白山通りとさくら通りがぶつかる角地にあったスーパーも、しばらく来ぬ間に取り壊されて、いまは時間貸しの駐車場である。すずらん通りに面した冨山房ビル(わたくしの学生時代にはここに冨山房書店という新刊書店があって、創土社のホフマン全集や冨山房百科文庫百科文庫など、よく拝ませてもらったことである)裏の路地にあった老舗タンゴ喫茶は書泉グランデと小宮山書店の間の道に面した洋装店の一階に移り、すずらん通りで長く営業している、店頭で売っていたピロシキが抜群に美味いロシア料理店は本日限りで閉店する。
 ──思えば靖国通り南側地域の街並みの変化は、神保町三井ビルディングと東京パークタワーの竣工から目に見えて始まった感がある。自分には勿論なんの責任もないんだろうけれど、この街に足繁く通って古本屋をハシゴして古書を購い様々勉強させてもらい、安くて美味いご飯をたらふく食べてお腹を満たすなど大きな恩恵を蒙った一方で、たとい仕事とは申せ不動産会社の社員としてこの街の景観や人の流れなど変貌するきっかけにかかわった後悔なのか罪悪感なのか、単なるセンチメンタルなのか、自分でもよく判断できないアンビバレントな気持を抱くのである。
 神田古本まつりの会場を去ろうとしたとき、歩道に並んだ古書店の平棚に懐かしい一冊を見附けて値札も検めることせず迷わず購入した。ありふれた文庫本だ。いまも新刊書店の棚にあるのではないか。
 ──ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』(福島正実・訳 ハヤカワ文庫FT 1980/11)である。◆

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第3692日目 〈杉原泰雄『憲法読本 第4版』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 今年になって読んだ本で、こうも読み終えるのに手こずった一冊はなかった。内容的にも、時間的にも。杉原泰雄『憲法読本 第4版』である。岩波ジュニア新書、2014年03月刊。
 銀行の待ち時間に開いて、いつものスターバックスで閉じた。50ページ弱を、2時間ちょっとで読んだ。
 岩波ジュニア新書、侮るなかれ。思い知らされた。これはとても中身の詰まった、常に読者へ「考える」「思い出させる」ことを促す一冊だ。
 テーマがテーマだけに簡単に流すことを拒む点では、これまで読んだ憲法関連書と同じ。本書の場合、果たして想定ターゲットは、選挙権を持ち、社会に出て種々の条令や法律、社会制度にかかわって生きるようになった「成人」なのだろう。だからというて勿論、本来レーベルが想定する読者層を蔑ろにしているのではない。この年代で(最初に)読んだとしても年齢を重ねるにつれ、社会や法律との関わりを強めてゆくにつれ、幾度だって読み返して現状認識や問題意識を改め、また新たにしてゆくを可能とする一冊なのだ。
 わたくしは──偽らずにいえば、ちょっと息切れを覚えながらどうにか読了した。この前に何冊か憲法の本を読み、日本国憲法にも数度目を通していたこともあり、抵抗はなかった。が、中身はかなり詰まっており、その密度も相当に濃い。一日に読み進められるのは精々が10ページ程。立ち止まって考えこみ、思い出そうと前の方に戻ったり、或いは巻末の憲法条文を読み、……を繰り返したからである。
 ふだんであれば読みながらシャープペン(シャーペン、なの? いまって)で書き込みとかするんだけど今回は、読書最終日を除いてそうした作業は殆どしなかった。二、三箇所くらいかな。早々にその作業を放棄もしくは諦めていたからね。なぜといえば、割にはじめの段階で再読を要すとわかっていたから。読了から旬日経ぬ間に二度目の読書を実行し、そのとき書き込みとかしよう、と決めていたから。まずは読了すること、まずは本書の全体像を(最後まで読むことで)把握すること、この二点を最優先事項と定めたから。
 来月から再読、始めますよ。あと28.5時間で来月11月やけどな。でもその間に、ちょっと息抜き。小説を……願わくばそのまま憲法に戻ってこない、なんて事態に陥らぬことを。それは結構、厄介なことだからね。
 「〜`23.10.30 18:29了
  青色(息)吐息乍ら充実した、濃密なる読書の一刻を味はふ
  但未だ理解及ばざる点、考えたき点、多く有。喫近(緊)の再読とノートを要す」
──本書『憲法読本 第4版』扉に書き付けた、読後最初の感想である。「青息吐息」の用い方、間違ってますね。この場合は「罷弊」なんて語が、字面も含めて似つかわしいのだけれど、「ヘトヘト」とか「クタクタ」っていう方が感じが出て相応しいかもね。◆


憲法読本 第4版 (岩波ジュニア新書)

憲法読本 第4版 (岩波ジュニア新書)

  • 作者: 杉原 泰雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 新書




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第3691日目 〈江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)を読みました。併、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』読了。〉 [日々の思い・独り言]

 未完、という最大級の難点こそあれ、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』所収江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)は、如何に推敲して作品のクオリティを高めるか、を考え実行する格好の材料となる。
 あらかじめ新潮文庫『江戸川乱歩傑作選』で決定稿を読んで、両者の相違を目の当たりにして思わず唸ってしまった。名作の成長過程をわずかならが覗き見した気分である。成る程、ふだんわれらが親しむテキストの前段階はこうなっていたのか。草稿版と決定稿の間にある差異と不変の点……なにを改め(消し)、なにを活かした(残した)か。二つのヴァージョンを読み較べると、よくわかる。
 まず、構成が異なる。決定稿では名探偵の登場は数ページを繰ってのことなのだが、こちら草稿版だとのっけから登場しているのだ。しかも、書籍の谷底に埋もれて、崩れてきた本を体の上に乗っけたままよく寝られるな、と感心する寝相で。
 同時に、事件現場と死体の発見が向かいの喫茶店の客によってされるのは変わらないが、明智とその知人が決定稿ではその役を担うのに対して、草稿版では増野なる人物にその役があてがわれている。むろん、警察相手に供述するのも指紋を採られるのも、後者では増野である。
 D坂の古本屋で殺されたのはそこの店主の細君だが、殺害方法が異なる。一方は絞殺だが、一方は射殺なのだ。しかも銃撃音を耳にした者はない、とある。
 寝ている明智を叩き起こして事件について話するのは、決定稿は喫茶店で一緒になり共に殺害現場を発見した知人だが、草稿版は現場を見ている警視庁の、知己である小林刑事である。
 人称も、決定稿が知人の一人称であるのに対し、草稿版は三人称となっている。
 加えて、前述のように草稿版は未完、ミュンスターベルヒ『心理学と犯罪』を読ませたところで筆が擱かれている。
 いったい犯人は誰なんだ、とフラストレーションの溜まる場面だ。ちなみにいま、草稿版を読み返したけれど、決定稿で真犯人として挙がった人物は未登場である。
 ──乱歩が草稿版を、いよいよ……というところで破棄したのは、すこぶるプロットに無理があるのを感じていた折も折、相応しい位置に立つ犯人(それは犯人の性癖の痕跡の追加にも繋がる)を想像し得たことから必然的に為された中断ではなかったか。それをきっかけにプロットの練り直しが行われ、やがて決定稿に繋がっていったのではないか。
 わたくしは乱歩の熱の入った読者ではないし、研究文献なぞ殆ど持たぬ光文社文庫版全集のエッセイや評論の巻を所有するに過ぎないから、識者の発見や研究がどのようにこのあたり結論附けているか知らないけれど、アマチュアながらも自分が実作者の側に立ち、かつ作品を中途で破棄してそのままだったり再生させたりした経験を踏まえて、<乱歩先生草稿版中途で破棄>問題を斯く想像するのである。
 この草稿版は、可読性を優先して適宜編集が施されたヴァージョンだ、と昨日触れた。読み通すことのできるテキストが提供されたことを、喜びたい。冒頭に、判読不明や編者補足の凡例があるので、それが読書にどう影響するか危惧したけれど、該当する箇所はそれぞれ一箇所のみで、読書に際してまったく停滞失速をさせるようなものではなかった。
 《大衆文化》二号に載る翻刻も覗いてみたけれど、同じ箇所を較べたとき、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』で翻字を担当した落合教幸、構成を担当した新保博久の苦労と健闘を讃えたくなる程件の写真版とその翻刻は、可読性という一点に於いてかなり劣るのだ……。校訂テキストの作成、定本化の作業には、詳細な校異表があれば事足りるわけではない。読書を享受するばかりの人は案外気附けぬそんな単純な事実を、この草稿版が教えてくれる。
 「D坂の殺人事件」(草稿版)は乱歩の創作姿勢の一端を垣間見せる貴重な記録であると共に、より良いテキストを作成して読者に提供せんとする二人の従事者の努力と執念の賜物というてよい。今後、ちょっと深入りしたい乱歩読者は一遍でも、この草稿版に目を通してみるとよい。◆

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第3690日目 〈歳月の下に記憶は埋もれる ──ミステリ小説再読のタイミング。〉 [日々の思い・独り言]

 個人差があるのは分かっている。これは君、モナミ、あくまで ”わたくしの場合” なんだ。
 一遍読んだミステリ小説は、自分の愉しみとして読んだのなら再読するのは7年後が理想だ。自分を被検体として実証を試みた末の結論である。
 どうして7年後? ──うむ、7年、という具体的歳月に支障あるようなら、もっと短いスパンでもよい。要するに、一年単位で間を置け、ということだ。
 だから、どうして? って訊いてるんだけど? ──急かすな、モナミ。眉間に皺寄せて迫る程のことじゃあないだろう。じゃあ、さっさと答えなさいよ。
 ウィ、マドモアゼル。
 理由は単純だ。それだけの歳月が流れるうちに記憶は薄まり埋[ウズ]もれる。粗筋は勿論、真犯人や動機、アリバイ、トリック、ミスディレクション、ちょっとした台詞や表現の煌めき、そんなもの忘れ果てるにじゅうぶんな時間ではないか、7年とか一年単位の経過なんて。
 覚えていられる作品の方が却って稀少と思うんだ。個人差があるのは分かってる。が、いったい誰が、『そして誰もいなくなった』とか『アクロイド殺し』、『Yの悲劇』の衝撃を忘れられるっていうんだい? 忘れようとしても難しい。でも、そんな作品の方が珍しいんだ。大概は、すこしの間記憶に留まって、やがて消えゆく。
 乱歩の「D坂の殺人事件」(『江戸川乱歩傑作選』 新潮文庫)を先刻一時間ばかし再読したが、いやあ、密室に等しい古本屋で発生した殺人事件の真相を明智小五郎が突き止める話、くらいしか覚えていなかった。犯人、誰だっけ? どうやって殺したんだっけ? 犯人は如何に密室から姿を消したのか? 等々全体の三分の二あたりまで来て、薄々察してきた(思い出してきた)ことである。
 試しに他の作品──鮎川哲也「達也が嗤う」、栗本薫『鬼面の研究』、小森健太朗『コミケ殺人事件』を読み返してみたけれど、前回の読書からおそらく10年から5年近くの歳月を挟んでいることもあり、やはり乱歩同様の事態が生じた……というよりもこちらの作品については肝心の粗筋まで即座には思い出せなかった程なんである(この三作は意図したセレクションに非ず。書架に挿してあったもの、積まれていて偶々背表紙が目についたものを、テキトーに持ってきたのである)。
 歳月の流れに埋もれた記憶は、此度の再読によってようやく甦りけり。とはいえ、またしばらく経ったら、忘却のレイテ河を流れてゆくことになるのだろうなあ。
 おゝ、モナミ。ミステリ小説の再読は7年後が理想、というのは上述のような、わが身を被検体とした実証の結果なのですよ。
 ご理解、ご納得いただけましたでしょうか、わが君?
 ──ううん、全然。今夜、ゆっくり話しましょう。
 ウィ、マドモアゼル。◆

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第3689日目 〈ぼくは素直な読者。〉 [日々の思い・独り言]

 思うに、ぼく程素直な読者もいないのではないかしら?
 自讃ではなく、本心からの述懐だ。というのも、──
 しばらく中断を余儀なくされていた、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』(光文社文庫 2015/05)をふたたび読み始めた。読み挿しの期間がすこぶる長くなると、だんだん読書の意欲は失せてゆくのが、わたくしの常。とはいえ二篇を残すのみなんで、このまま中断して書架へ仕舞いこむのも後味が悪い。二篇は足しても70ページくらい。ならば、憲法やホームズの本を数時間我慢して、こちらに集中しよう……。
 そうして先刻、野村胡堂「紅唐紙」を了えた。愉快で気持の良いミステリ短編だった。胡堂の小説といえば《銭形平次シリーズ》しか思い浮かばぬくらい、その光芒は燦然と輝きそれ以外のフィクションの存在を影薄くしてしまっているが、「紅唐紙」もかの名作捕物帖に隠れて目立たずにあった一作。
 新保博久の解説に拠れば「紅唐紙」は、昭和2/1927年8月の報知新聞に《奇談クラブ》シリーズ第一話として掲載された由。現代を舞台にした連作ミステリというが、その後も書き継がれて新シリーズ《新奇談クラブ》もあるというから、当時の読者にはマダ野村胡堂イコール銭形平次という固定観念は生まれていなかった、或いは定着していなかったのかもしれない。
 「好事家の知識人(でなくてもよいのだが)が寄り集まり会員同士、ときにゲストを招いて珍談奇談を披露するデカメロン形式の連作だが、物語を荒唐無稽に堕とさせないための枠組みに留まらず、事態の解決に会員が乗り出す場合もある」(P390 解説)、胡堂のこのシリーズ、いつか全篇乃至数篇でも読んでみたい気にさせられることである。
 ところで、いつ須藤老小使はみんなにお茶を運んできたのだろう?
 ここで話は冒頭に戻って、自分程素直な読者もないのではあるまいか、の件。それは次の一篇、最後の一篇に起因する。
 〆を飾るは、江戸川乱歩の名編「D坂の殺人事件」。古書もしくは古書店をテーマにした国内作家のアンソロジーでは、夢野久作「悪魔祈祷書」、野呂邦暢「本盗人」と並ぶ定番である。とはいえ、作品のセレクトを担当する新保は、解説から察するに、「D坂の殺人事件」を収録するに際して、新潮文庫や創元推理文庫、光文社文庫他で簡単にアクセスできる決定稿を採用するのは忍びなく芸も無い、と考えていた様子。
 斯くして本書で最終的に採用されたのは、《大衆文化》2号(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター 2009/09)に写真版と翻字が載る草稿版を底本に、可読性を優先して適宜編集を施したヴァージン。以前程熱心に乱歩を読んでいるわけでもなく、舞台裏に関心を抱くのでもないから、まちがっていたら申し訳ないけれど、草稿版が通読に耐える形で一冊の本に入るのは初めてではないか。
 胡堂を読み終え、乱歩に行く。と、ここでわたくしは自宅にとんでもない忘れ物をしてきたのを思いだした。むろん、乱歩とかかわりのあることだ。即ち、──
 新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』を持ってくるのを忘れたのだ。これは、「D坂の殺人事件」決定稿を収める。
 この忘れ物に気附いてわたくしは、そのまま胡堂から乱歩へ読み進めるのをやめた。潔く、パタン、と文庫を閉じたのだ。
 え、どうしてか? って?
 草稿版冒頭に、「先に決定稿を読んでから、この草稿版を読んでね」と<良い子へのお知らせ>があるからだ。
 それに従う。どの道、筋らしい筋も覚えていないから、再読の好い機会である。が、決定稿の収まる文庫を、いっしょに持って出なかった。これでは<良い子へのお知らせ>が守れない。
 為、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』をパタン、と閉じた。草稿版は、決定稿を読んでからのお楽しみとしよう。
 ね、ぼくって素直な読者でしょう?◆

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第3688日目 〈松坂健『海外ミステリ作家スケッチノート』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 髪の毛を乾かしている間に、松坂健『海外ミステリ作家スケッチノート』(書肆盛林堂 2022/05)を拾い読みしている。
 昨日一瞬だけ話題に上したジョン・D・マクドナルドが項目立てされていて、嬉しかった。割に好意的に書かれているのが、余計に。
 「ペーパーバック・ライターという冠を卑下せず、コツコツやってきて、最後はメジャーライターになった努力の人、それがジョン・Dなのである」──松坂のジョン・D評である(P96)。
 なぜかこの結びの一文を読んだとき、無性に涙腺がゆるんで仕方なかった。訳者解説の類を除けば、あまりジョン・Dを温かい眼差しで語る文章に、お目にかかることがなかったから(わたくしの怠惰や見落とし等が原因かもしれない)。なぜだかペーパーバック・ライターという出発点が、最後まで殊日本の評者の目を曇らせてきたように思えるのだ。もっとも翻訳の関係もあるのだろうけれど……。
 ああ、この人にもっとジョン・Dを語ってほしかった、と願わずにはおられなかった「スケッチ」である。が、もう著者はこの世にない。
 本書は、松坂が生前企画していた101人のミステリ作家のガイドブック用に書かれた原稿を集めた一冊だそうだ。そのあたりの事情は、(著者歿後の出版であることもあり)編集方針も含めて小山正の解説に詳しいが、或る意味で圧巻は、執筆予定作家も交えた101人のリストである。
 松坂が、エラリー・クイーンやコリン・デクスター、スティーヴン・キングやジェイムズ・エルロイについてなにを、どう書いたか、とても興味深い。読んでみたかった。かれらについてのスケッチが遺されなかったのは、返す返すも残念でならない。◆

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第3687日目 〈『野呂邦暢ミステリ集成』から、「推理小説に関するアンケート」を俎上にして。〉 [日々の思い・独り言]

 べ、別にネタが尽きたから苦し紛れでこのような物を書くわけじゃあ、ないんだからね(汗)。前から書いてみよう、乗っかってみよう、と思ってのを実行しただけだもん!
 ──まァそんなツンデレ台詞はさておき。
 ふとした拍子に、新聞や雑誌に載るのと同じテーマでエッセイを書きたいな、と考えます。これまで何度となく、記事を読むうち自分の言葉、文章が浮かんで筆を執ろうとしたけれど、実行に移したのはたぶん、今年のいつだったか、『中央公論』誌の特集記事に便乗した一篇だけだったような気がします。
 今回同じことをしようと思い立ったのは勿論、ネタが尽きたからではありません。昨日話題に上した『野呂邦暢ミステリ集成』のエッセイ・パートの最後を飾るアンケートを読んでいて、ふむ自分であれば……とこれまでの読書歴を振り返り考えこんでしまった、その結果を書き残しておこうと思うたからに他ならない。設問三については暫定的な回答になるが、アンケートとは得てしてそうしたものでありましょう。



 「推理小説に関するアンケート」が、『野呂邦暢ミステリ集成』の最後を飾るかれの文章でもあります。設問は、以下の三点。述べれば、──

 ①あなたは推理小説に興味をお持ちですか?
 ②その理由は?
 ③興味をお持ちの方は、お好きな作品を国内。国外それぞれ三つずつ挙げてください。

──である。
 これに接してわたくしは、こう答えます。即ち、──

 ①あなたは推理小説に興味をお持ちですか?
 →大いに興味を持っている。

 ②その理由は?
 →憂い事イヤなことを刹那でも忘れられるから。気分転換にもなる。また、物事を論理的に、筋道立てて、傍証を用いながら結論附ける思考力を養うことができるから。

 ③興味をお持ちの方は、お好きな作品を国内。国外それぞれ三つずつ挙げてください。
 国内(順不同)
 1;岩木章太郎『新古今殺人草紙』
 2;若竹七海『古書アゼリアの殺人』
 3;宇神幸男『ヴァルハラ城の悪魔』
 国外(順不同)
 1;ジェームズ・アンダースン『血染めのエッグ・コージイ事件』
 2;ジョン・D・マクドナルド「死のクロスワード・パズル」
 3;ウィリアム・ヒョーツバーグ『堕ちる天使』

──というところでしょうか。どれも夢中になって読み耽り、そのあと何度も読み返した(広義の)推理小説です。国外はみんな、アメリカに偏ってしまいましたね。
 ちょっと分裂気味なセレクトですが、わたくしもそれなりに長い時間、ミステリ小説を読んできているから或る程度までジャンルのなかで好みが分かれてしまうのは、仕方ない話だと思って諦めています。
 なお、設問三からは、所謂「クラシック」となっている作品を省きました。「クラシック」の定義は人によって様々でしょうが、ここでわたくしがいうのは、「オールタイム・ベスト」を選出すると決まってランキング上位(10作から30作くらいですか)に食いこんでくる定番的作品、とご理解いただければ幸いです。時代ではなく位置に係る語である、とご承知ください。
 読者諸兄のなかに推理小説好きがどれだけいるか、わかりません。このアンケートもド定番の設問になっていますが、さて、あなたならどうお答えになりますか?



 ところで。
 上のアンケートに野呂邦暢がなんと答えたか。知りたい方は『野呂邦暢ミステリ集成』を読まれたし。
 他の作家がこのアンケートにどう答えたか。知りたい方はアンケート掲載誌(『中央公論夏季臨時増刊 大岡昇平監修・推理小説特集』1980年8月)を探して読まれたし。◆

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第3686日目 〈『野呂邦暢ミステリ集成』から、ミステリにまつわるエッセイに「ふむふむ」する。〉 [日々の思い・独り言]

 野呂邦暢のミステリ小説にまつわるエッセイが、『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫 2020/10)に幾つか載っている。
 申し訳ないが小説よりもエッセイの方を、ずっと面白く読んだ。一篇の作物としてもそうだけれど、そのなかの一節に惹かれた。時に首肯し、時に懐かしみ、時にクスクス笑いを抑えられなくなり。
 たとえば、──

 ミステリに機械仕掛のトリックは無用なのである。大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない。犯人は内なる声に命じられて人を殺す。殺人は宿命なのである。彼があるいは彼女がみじめな境遇におちいったのは、他人のせいではなくて、当人の問題である。国産のミステリはごく少数の例外を除いて、犯行は社会が悪いからということになっている。みんな他人のせいということになる。すなわち女々しいのである。(P295-6 「南京豆なんかいらない」)

 これは、首肯、である。納得、と言葉を換えてもよい。機械仕掛のトリックは無用。わたくしもそう思う。事前に準備をこらすのは結構だけれど、被害者──ターゲット──が予測通りに動いてくれなかったら台無しになるトリックは、いただけない。犯罪は人間の手に為る。ゆえにトリックはシンプルであればシンプルである程、良い。機械仕掛に頼るトリック程、名探偵の頭脳に罹れば砂上の楼閣に等しいのだ。ホームズもいっている。曰く、「人間の発明したものなら、人間に解けないはずはありません」(「踊る人形」〜『シャーロック・ホーズの帰還』P70 延原謙・訳 新潮文庫 1953/04[1985/12 61刷])と。機械仕掛けに頼らぬトリックの方が、すこぶる難物である、ということにもなろうか。
 トリックをシンプルにするということは、必然的にそちらに関する描写の比重は少なくなり、差分は自ずと人物造形、人間関係の書込みに費やされる。人物描写と細部の描写が巧く書ける作家は、単純なトリックで素晴らしいミステリ小説が書けるはずだろう。

 また、──

 年に何回か上京するつど、神田や中央線沿線の古本屋街をうろつく。
 早川のポケットミステリそれも初期の発行ナンバーが百番台から三百番台の数字がついているものを探すためである。このシリーズを揃えている店が、神田に一軒、早稲田に二軒ある。中央線沿線にも一軒ある。店名はあえて書かない。(P293 「南京豆なんかいらない」)

 これは、懐かしさ、である。
 セピア色になりかけた記憶に早稲田はともかく、神田の一軒はしっかり残っている。学生時代から20代を通して、この古本屋にはずい分お世話になった。多量のペーパーバックをここで漁り、ポケミスや銀背、創元社の叢書の端本を発掘し、ハヤカワ・ミステリ・マガジンの(お目当ての)バックナンバーを揃えた、あの古本屋。訪れた文筆業者は星の数、かれらのエッセイにはしばしば登場する、あのお店。なつかしいなあ……。
 もう一丁、──

 推理小説とはいうものの、私が読みながら犯人を推理したことは一度もない。わずらわしい世事を忘却するために読む本である。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。すこぶるいい加減な読者なのである。推理なんかしなくても犯人の見当はつく。いちばん犯人らしくないのが犯人に決っている。そう思えば間違いない。(P291 「マザー・グースと推理小説」 ※)

 ──クスクス笑いが抑えられない。なんだ、あなたもですか。そんな気持になる。読みながら犯人を推理したりしない。わたくしのことではないか。犯人は普通の面構えをしているものなのだ。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。わたくしのことではないか。赤鉛筆片手に捻り鉢巻きで額に脂汗垂らして読むような代物ではないし、ミステリ小説はただの気分転換であり、浮き世の憂さを一時的にでも忘れるためにある。わたくしもいい加減な読者なのである。つまり、ここに同好の士を見附けたのだ。
 『愛についてのデッサン』(ちくま文庫)と本書だけが現在は、野呂の単独名義で出ている文庫である。いずれもミステリ小説集である。野呂の全文業を見渡したとき、かれのなかでミステリ小説の執筆がどれだけのウェイトを占め、また単純に「余技」以上の意識を持って筆を執っていたのかどうか、わたくしには分からない。
 が、ミステリ好きが高じて執筆に手を染めた者だからこそ、プロパー作家以上に自分好みのミステリ、<わがミステリ観>というべきものをストレートに表出した作品が書ける。逆説ではない。自然の理だ。坂口安吾、戸板康二、福永武彦、柴田錬三郎、大岡昇平、小沼丹、田中小実昌、小泉喜美子、先人の名を挙げ始めれば枚挙に暇がない。その系列に、野呂邦暢も属する。かれらの筆から生まれた作品が大概、ミステリ小説というジャンルへの一種の信条告白となるのは、同じく自明の理だろう。
 ここに載ったエッセイは、一愛好家としてのみでなく実作者としてミステリ小説の筆を執った野呂の、ミステリ愛、ミステリ観を過たず伝えてくれている。量はわずかであってもこうしてまとまってミステリ小説についてのエッセイが読めたことを、一人のちっぽけなミステリ好きとして幸福に思うている。
 これは、小沼丹『古い画の家』(中公文庫 2022/10)といっしょに今日、2023年10月20日(金)横浜そごう7階の紀伊國屋書店にて購入した。そうして本篇初稿は同じ日、市役所裏のスターバックスでモレスキンに書いた。これから知己が期間限定で開いているスナックへ、行く。◆

※ 実は丸谷才一にも、野呂と同趣向の発言がある。曰く、「むかしの人は探偵小説を犯人当てだと考えたわけね。あれは間違いで、あんなものは当たるに決まってるんですよ、真面目にやれば。あまり真面目にやりすぎると、またはずれるんだけれど。だからいい加減に考えて、それで遊ぶ。それが読み巧者の態度でしょう」と(『快楽としてのミステリー』P23 ちくま文庫 2012/11)。
 ミステリは知的遊戯である。が、それに真面目に取り組む必要はない。ただ気持ちよく騙されておればよいのである。□

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第3685日目 〈そういえば、そんな計画もあった。〉 [日々の思い・独り言]

 晩年の平井呈一にはディケンズの小説をまとめて訳す計画があったらしい。荒俣宏『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社 2021/05)には、その準備のために、海外の古書店から大量のディケンズ研究書を購入した旨記述がある(P183)。
 この一節を胸に刻んでわたくしは、シェイクスピア研究書を、身の丈に合った範囲で購っている。こちらは専門の研究者でも、演じる側にもない、ただの芝居好きで、いまは一年に一度か二度、舞台を観に行ければ満足している風の者でしかない。それでも、ささやかながら自慢できることがあるとすれば、曲がりなりにもシェイクスピアの全戯曲を読み果せたことである。
 本ブログで以前に、シェイクスピアの37の戯曲の感想文じみたエッセイを書いてゆきたい、と述べた覚えがある。志は喪っていないが機を逃したのを感じている。当初はまさしくいまの時季に、その処女作『ヘンリー六世』全三部を読み、聖書のときと同じようなスタイルでノートを書いてお披露目しようとしていたのだ。
 機を逃した理由には口を閉ざすとして、志を喪っていないのは幸い事であるかもしれない机の脇に重ね置きした小田島雄志訳シェイクスピア全集(白水uブックス)から任意の一冊を開いて或る一幕でも或る一場でも読んだり、上演史や出版史、個々の作品論や(専ら)翻訳家のエッセイをぱらぱら繰っていると、埋み火になりかけの志が再燃してくるのが感じられる。
 前述したが、シェイクスピアの戯曲は全部で37篇。これを一ヵ月に一作ずつ読み、一週間弱のなかで折々徒然、気儘に暢気に、ノートとも感想文ともつかぬエッセイをお披露目する。テキストは手に馴染んだ小田島訳と決めている。並行して松岡和子(ちくま文庫)や河合祥一郎(角川文庫)、人生初沙翁となった新潮文庫(以前、口絵写真がいつの間にかなくなってんのな、と喚いたアレです)……まァ作品による。あとは史劇なら背景となる英国史、身の丈に合わせた必要に応じた研究書のお世話になって──。
 なにはともあれ、言っちまった以上はやるのが道理だ。このまま沙翁放置じゃ、死んでも死にきれないぜっ! だからって化けて出る気もないけどな。
 シェイクスピア、『ヘンリー六世』。来年前半には取り掛かりたいですな。憲法関連書の読書が終わったらすぐにこちらへ取り組む準備を始めよう。なにも起こらなければいいけれど。◆

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第3684日目 〈わが最嫌の愚者への悲歌。──For K.A.〉 [日々の思い・独り言]

 咨、プルータス、お前もか。今際の台詞だが我未だ臨終とは遠き身なり(たぶん)。ジュリアス終の台詞は、いまのわたくしにとって、嗟嘆の呟きである。
 貴方はダメになってしまいました。もういまの貴方からは、昔の自信も栄誉も人望も、失われてしまった、……跡形もなく!
 それを貴方は他人の所為ばかりにして嘆き、合間に呪詛の台詞を挿し挟む。だが君よ知れ。まわりの評価、まわりからの敬慕なぞ途轍もなく移ろいやすいものであることを。貴方の場合はそれに加えて、身から出た錆でもあるではないか。嘆き、呪う前に来し方を検めよ。
 仕事帰りに時々呑みに行くことがあったが、そのときの貴方といまの貴方はまるで違ふ。そんな風にあおるようにしてとめどなくアルコールを喉奥へ流しこむ人だったろうか、貴方は。
 それが己のなかで暴れる怒りや不満を宥めるための手段なら……わたくしは止められない。
 よしや君、望むのであれば、二度と這いあがること君にはできぬ奈落の底への扉を、わたくしが開けてあげよう。
 待つのは孤独、待つのは無理解、待つのは無視、待つのは社会的抹殺。すべてわたくしが己が身に蒙った、君が音頭を取って拡散された悪意の終着だ。──覚悟できているのなら。◆

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第3683日目 〈it’s new!〉 [日々の思い・独り言]

 相次ぐ原稿の差し替えで、落ち着く暇がない。たしか昨日もそうだったね。お披露目前の、まだSo-netブログに予約投稿していない原稿も差し替え対象になっている。
 実をいえば本日、第3683日目もその一つで、当初書いてPages入力した原稿はどうにも内容が迷走してしまっており、散漫かつ重複も甚だしいとなっては、流石のわたくしもそれは永久破棄せざるを得ぬ。拠って、他の原稿を急いで書く必要が生じ、その第一稿に取り掛かった。
 これが差し替え第一段階。第3683日目お披露目まで、あと五日……。
 されどあたらしい内容の第一稿も、ちょっと暗礁に乗りあげてしまった。既に全体のアウトラインはでき、スケッチも含めれば半分くらいは形になっている。白状すれば新稿は小説の感想文なのだが、忘れてしまっている部分もあるので確認も兼ねて読み返している次第。アニメとノヴェライズの記憶、印象がゴッチャになっていまっているせいで、ストーリー紹介の筆を執る筆が殊更慎重になってしまっているのだ。
 これが差し替え第二段階。第3683日目お披露目まで、あと三日……。
 が、これも間に合わぬ、と本能が判断。賢明というべきだろう。斯くして件の小説の再読と並行して、あらたなる第3683日目の原稿を書かねばならなくなった。話題は? 話題はあるのか? いわゆるハナシのタネだ。──あるにゃああるが、まだ自分のなかで固まるものがなにもない状態。お披露目の<時>はすぐそこまで迫っている。働け、わたくしの脳細胞!
 休みを要求して隙あらばサボろうとする脳細胞を叱咤し、鞭をビシビシ揮って過重労働させた結果が、殆ど一瀉千里に筆を走らせた本稿である。やっつけ仕事でも手抜きでも何でもない。それは他ならぬこのわたくしが保証する。それが証拠に、ここには特定の人物へ向けた時限メッセージを仕込んである。クロネコバントウノシヨセイヲカフ。読み解け、君。
 最後はいらん話になったが、これが差し替え第三段階すなわち最終段階だ。第3683日目お披露目まで、あと二日。むろんお披露目されるは、いま読者諸兄がお読みくださっている本稿、〈it’s new!〉である。
 これで当面は、お披露目する文章の不足を悩む必要はなくなった。不安は回避されたのだ。第3683日目以後も何日分かの原稿は、用意できている。
 さて、先延ばしにした感想文のための読書を、再開しよう……。◆

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第3682日目 〈意にそぐわぬままお披露目した「第3672日目」を差し替えること。〉 [日々の思い・独り言]

 みくらさんさんかから、お知らせです。

 第3672日目で労働について思うところを述べました。タイトルは、「〈なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。(ルカ9:41)──労働について独り語りする。〉」です。
 お披露目前に推敲を終わらせるつもりでしたが間に合わず、推敲前の原稿をお目に掛ける結果となりました。なんともダラダラした文章であった。反省している。
 ここ数日、プリントアウトしたA4用紙5枚を携行して、都度朱筆を入れておりました。それがどうにか終わった昨日モレスキンのノートへ書き写し、先程Pagesに入力して暫定決定稿が出来上がりました(いちばん最初にモレスキンのノートにずらずら書き綴った頃から数えれば、一ヶ月半もこの文章は、わたくしを悩ませた)。
 よって本稿お披露目と同じタイミングで、第3672日目を旧稿から新稿へ差替えます。タイトルは異なりますが、内容に大きな変化はありません。
 ちょっとだけでも、マシな読み物になった、と思うていただけると嬉しいです。◆

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第3681日目 〈ラダー・シリーズでやり直そう。〉 [日々の思い・独り言]

 先日、英語の勉強をやり直すことにした、と書いた。本稿執筆時点で件の原稿はまだ予約投稿していないので、たぶん一昨日なのだろうけれど、まったくもてそのあたり不明である。
 それはともかく、前稿のおさらいをすると、部屋の片附け中に出て来たLe Guinの原書を開いたら、当時みたくは読めなくて愕然とした、為に勉強し直すことにしました、てふ内容だった。今回はその続き、といおうか、付け足しというか、オマケっていえばいいのか……である。



 いま流行りのリスキリングには該当しないそうだ。スキル・アップというも的外れらしい。厳密なことをいえば両者に、「やり直し」の意味、「かつて持っていた力を取り戻す」意味は含まれないようなのである(知己の談)。なので、ここではその行為をこれまで通り、「勉強のやり直し」と表現させていただこう。
 では、本題、──。



 英語の本を再び読める様にする。手始めに取りかかるのは、Le GuinやDoyleが本来だろう。しかし、そこから始めるのはヤメにした。リヴェンジを果たすための能力──わずかながら残った英語力──が絶無に等しいのを思い出したからである。
 なにから始めようか。そんな思案を意識の片隅に留めて午前と午後、病院のハシゴをした帰りに丸善へ寄り、考えるともなく英語学習の棚を端から端まで眺めていたら、IBCパブリシングが本体価格1000円前後で刊行している「ラダー・シリーズ」が目に付いた。ジャケット袖に書かれたシリーズの特徴を引けば、──

 語学上達の秘訣はなんといっても多読です
 ラダーシリーズは、使用する単語を限定して段階別にやさしく書き改めた、多読・速読に最適な英文リーダーです。本文中の知りたい単語が全て載ったワードリストが巻末に付属、辞書なしでどこでも読書が楽しめます。

──と。
 原書を一冊最後まで読み通し、繰り返して英文読書を日常化させるコツは、「多読」あるのみ。ラダー・シリーズの「はじめに」にもあるが、「1.早く 2,訳さず英語のまま 3,なるべく辞書を使わず」読むのが、結局のところは王道なのだ。
 そういえば……16歳から20歳にかけて初めてその名を知り、著書(訳書)に触れた3人の外国文学者・言語学者も、「多読」という表現こそ使っていないが、若い頃多量の原書を浴びるようにして読んでその才を伸ばし、生涯の仕事の根幹としたのだった。本ブログの読者諸兄には既にお馴染みのお三方、出会った順に挙げれば──平井呈一、渡部昇一、生田耕作、がその面子だ。
 平井は中学のリーダーにあったハーン描く幽霊の人間性に惹かれ、また友人から借りたイギリスの雑誌に載ったマッケン作品の妖しい魅力に憑かれて、翻訳の世界に足を踏み入れた。渡部は紆余曲折の後アメリカに留学、各地の大学で教える傍ら英語で書かれた現代小説を片っ端から読み倒してゆくなかで遭遇した『マージョリー・モーニングスター』でようやく英語の小説を母語で書かれたそれの如くに面白く感じることができた。生田は京都・大阪・神戸の地の利を活かして古本屋に多量に放出された1920年代の現代アメリカ小説を漁っては読み耽り、を繰り返し、一方で雑誌が企画した原書100冊読破マラソンに挑んで達成、賞状をもらったなどの経験を振り出しに、長じてブルトンらシュルレアリスムや異端の文学の翻訳紹介に務めるようになった。
 長くなったが、共通するのは「多読」という経験である。焦らず急がず、じっくりと、一冊一冊と読み重ねてゆけば、原書を読む力は着実に蓄えられてゆく。その目的をかなえるならば、このラダー・シリーズは格好のシリーズ(の一つ)といえるだろう──。



 で、わたくしの場合だが。(←危うく忘れて本稿を閉じるところだった。その方が良い、という方もあろうが、わたくしは初稿に従って、まずは書く)
 丸善の棚の前で抜いて開いて戻して、を繰り返していたら、背の色が異なる一冊が目に付いた。ホームズ、プーさん、シェイクスピア、グリム童話、イギリス民話、ガンジーやアインシュタインの伝記……いずれも背表紙は青色だったのだが、その一冊だけが赤色だったのである。
 なんだろう? と手にしてみたら、なんと旧新約聖書のお話だった。天地創造やカインとアベル、ノアの方舟、モーセに率いられてのエジプト脱出、ダヴィデ王とペリシテ人ゴリアテ、イエスの誕生、良きサマリア人と放蕩息子の帰還、ラザロの復活、最後の晩餐、磔刑と復活、など計24話が載る。
 著者は、日本生まれのアメリカ人ジャーナリスト、Nina Wegner。ラダーのレヴェルは「4」で使用語数は2,000語。TOEICでは600〜700点に、英検では2級に相当する由。が、正直にいう! ラダーのレヴェル「3」のクリスティやドイル、ミルン(プーさん)、「2」の「シンデレラ」や「美女と野獣」なんかよりも、わたくしにはWegner ”Bible Stories”(『旧約聖書と新約聖書の物語』)の方がずっと読み易く、内容もよくわかったのである……当たり前といえば当たり前なんですけれどね。8年をかけて聖書にがっつり取り組んで、いまでも時々読んでいるんですから。
 使われている単語も文法も確かに「2」や「3」に較べて高度だ。英検2級レヴェルというのも頷ける。普通であれば歯が立たぬ代物だろう。聖書を読んでいなかったら、素直にレヴェル「1」から始めていたはず。
 にもかかわらず、レヴェル「4」の本書を選ぶのは、取り挙げられるエピソードに馴染みがあり、よお分からん単語が出て来ても、「こういう意味だろう」と類推できてしまうからだ(それが大概正解であったりする)。それで解決しなければ巻末のワードリストに頼ればいいだけの話。
 既に知っている作品を英語で読むことに、どこまでの意味があるか。そんな疑問は確かにある。が、敢えて申し上げれば、知っている作品があるからこそ多読が可能となる。シーンを思い浮かべられるならば、そこでどのようなことが語られているか、想像するのは容易い。然ればそこに書かれた単語が不明であっても憶測は容易だろう。文法はどうなるのか、という別角度からの疑問も出ようが、ラダー・シリーズに限っていえばそこまで複雑な構文は見当たらない……中学生レヴェルの文法書が手許に用意できれば(当時使っていた教科書でも参考書でもよい)、それを使い倒せばよいのではないか。
 「ラダー・シリーズを読む イコール 多量の英文リーダーを読む体力と免疫を付ける」なのだ、とわたくしは思うている。とはいえ、Wegnerを終えたらレヴェル「4」に留まるのではなく、イギリス民話とガンジー伝が読みたいこともあってレヴェル「1」から始めてゆくつもりだ。



 最後に。
 ついでにいえばもう一つ、”Bible Stories”を選んだ理由がある。企み、というてよいか。それは、各エピソードの和訳を作って、本ブログでお披露目すること(勿論、許可を得た上で)。
 本ブログの本来の姿はなんであったか? 格好のネタと思いにならないか? LeicesterのGhost Storiesは、そのあとだ。◆

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第3680日目 〈憂い事、イヤなことから逃れて、回復するための一手段。〉 [日々の思い・独り言]

 相変わらずリュックに忍ばせ、またベッド脇に積んで読むことしばしばなのは、憲法の本である。予定にない中断を挟んで読了までほぼ一ヵ月を要した高見勝利・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』(岩波現代文庫)だったが、途中芦部信喜や池上彰など拾い読みしたり、読書ノートを付けていたこともあってか、収録三篇を読み進め、読み終わる毎に憲法についての理解は深まり、自分の憲法観もすこしずつ固まっていった感を強う持っている。
 いま機を見て開くのは、杉原泰雄『憲法読本 第四版』(岩波ジュニア新書)である──09月19日に読み始めてけふ10月03日時点でようやく半分。今月中に読了したいと思うているが、さてどうなることか……。ジュニア新書の一書目ということで正直もうちょっと内容はライトかと思うていたら、とんでもない、舐めてかかると火傷する程の熱量と充実を誇る一冊であった。
 どこかで鬼の笑い声がするようだが、それは無視して先のお話を続ければこれを終えたら池上彰が書いた憲法の本二冊を読み上げ、流し読み程度で済ませていた背後に積み重ねた何冊かの憲法関連書(明治憲法と現行憲法いずれも含む。成立過程と両憲法の[当時]の解説書目が柱となる)を読み倒してゆく予定。これは流石に来年に終える作業となろうけれど、まぁわたくしの通常の読書ペースを思えば止むなし、か。
 されど、一つのジャンルを集中的に読みこみ、短期間の内に理解・知識を深めて血肉とし、自分の意見を表すのは自分には不向きである。同じような人は多いはずだ。読書して文書を書く者皆が皆、立花隆や小林よしのりのようではないのだ。そうなるだけの──継続的な粘り強さと探究心と根気を欠くわたくしなのである。
 そんな人物が斯様な一点集中型の読書に倦いたとき、採ってきた道は二つ。つまり、──
 パターン① 箸休めに手を伸ばしたジャンルに横滑りして、そのまま戻ってこなかった。
 パターン② 特に他を読むでもなくただ一息ついて休んでいたら、もう戻る意欲を失っていた。
──である。
 どちらかに分岐するのがほぼ常で、時間があいたにしても戻ってきて読書を再開、予定していた分を読破したというのは、実は、新潮文庫版太宰治作品集くらいしか思い出せない。いやはや、なんとも。
 そんな危険をいま、強く感じている。憲法の本を何冊か(杉原泰雄『憲法読本 第四版』が実質三冊目となる)読んでいて、ちょっと中弛みというか、惰性になってきてしまっているように感じているのだ。……これはアカン前兆やなぁ。ムカシの轍を、懲りずにまた踏みそうや……。
 そんな危険をいま、痛烈に感じているにもかかわらず、憲法の本を読む一方で愉しんでいるジャンルがある。それが、小説、なのだ。

 今年はいろいろなことがあって、そのせいでか、フィクションの世界に遊ぶのが空しく思えた。令和5/2023年に読んだ本は数あれど、つい先日(二週間くらい前)までは橘外男『蒲団』(中公文庫)だけだったのだ。読んだ小説というのは。しかも、元日!!
 二冊目の小説との出会い──先月9月中葉、新刊書店は文庫売り場にて──は偶然だった。特になにを買うでもなく、日課の新刊チェック及び立ち読み目的でふらり立ち寄った書店の平台に積まれてあったのを見附けて、購い求めたのである。裏表紙の粗筋(これって実際はナンていうんでしょうね)に目を通し、パラパラ目繰ってそのまま、殆ど躊躇いなく他と一緒にレジへ運んだのだ。原田ひ香『古本食堂』(ハルキ文庫)が件の小説である。
 ゆっくり、時間を忘れて読書を愉しんだ。一日一篇、惜しむようにしてページを繰った。帰りの通勤電車のなかでしか開けなかったけれど、却ってそれが良かったみたい。知らず肉体の内に溜まった疲れが慰撫されてゆくのを感じたのだ。『古本食堂』は当時に於けるわたくしの、一服の清涼剤となったのだ(紀田順一郎が『書斎生活術』[双葉社 FUTABA BOOKS]他でたびたび言及する、報知新聞の連載小説『富士に立つ影』[白井喬二]を帰宅するなり読み耽って会社での暗闘が引き起こすササクレだった気持ちを鎮めるサラリーマンの如く)。
 小説という代物は、【逃避】と【回復】をもたらす慰めのツールとなる。『古本食堂』を刺身のツマのような扱いでも敢えて持ち出したのは、それをお伝えしたかったからに他ならない。
 この数週間というもの、憂い事や悲嘆するようなことばかり続いて、クサクサしている。ヘトヘトになっている。それらすべて、原則独りで解決しなくてはならない。そんなときに読んだ『古本食堂』は、沈むばかりの荒ぶる気持を一刻と雖も宥めてくれたのだった。

 これがその後なにをもたらしたか、というと、買ったきり未読で積みあげられていた小説に食指を伸ばして、憲法の本と並行して読み始めたのである。偶々揃いを見附けたからとはいえ、ミステリー文学資料館編『古書ミステリー倶楽部』(全3巻 光文社文庫)を次に選んだのは、古本つながりのゆえもあったか。
 表題通り、古書を題材にしたミステリのアンソロジーなのだが、頗る付きで面白かった。なにしろ、──好きなジャンルながら著しく偏りのある者には──その過半が諸読の作品なのだ。これだけでもう、ワクワクドキドキしてくるではないか。
 第一集に収められた12人12作のうち、目次に、マル印──良かった/好かった印を付けたのは、戸板康二「はんにん」、早見裕司「終夜図書館」、石沢英太郎「献本」の三作。石沢と早見は(おそらく)完全に初読の作家、戸板は中村雅楽物以外のミステリ短編は初めて読む。後味の苦いもの、ホノボノした読後感のもの、しばらくは熱に浮かされた気分でいたもの、様々であるが、どれも存分に愉しめた、騙り/語りの上手さに唸ってしまった作品である。
 第二集は読み始めて間もないから、マル印を付けたのは坂口安吾「アンゴウ」一作だけ。このあと幾つのマル印が目次に付くか、いまから楽しみでならない。終えてみたら、安吾の小説にしかマル印が付いていませんでした、なんて事態にはなりませんように。
 とはいえ実は、そうであっても構わない、というのが相反する本音でもあるのだ。すくなくとも、鬱積してゆく憂い事、イヤなことを刹那忘れて、フィクションの、ミステリの世界に遊び、愉しむ日々を過ごせるのは事実だろうから。
 前述のように、本アンソロジーは全3巻より成る。最後の第三集を終えたらば、ではその次は……さて、なにを読みましょうかね。
 買ったままで未読の小説は、文庫、新書、単行本、幾らでもある。全作読破を目指したものの中途で読むのを止めているドストエフスキー(『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』、そうして新潮社版全集)と、同じく文庫された全作品の読破を志してポアロ物を過半済ませたところで中断したアガサ・クリスティが、視界の隅っこでこちらを窺っている。新しく翻訳が出るたび買いこむのだが読む時間が取れぬまま現在に至っているウッドハウスとスティーヴン・キングも、松本清張も藤沢周平も久生十蘭も、未読の状態で床に積まれたり、どこかに仕舞いこまれている。原田ひ香や原田マハ或いは江國香織のように単発で、作品が気に入って購入した作品も、ある。
 当分、新しく購入したりする必要はない。が、書店での出会いは一期一会だ。新聞の新刊広告には否応なく目が向く。翻訳すればこれは、未読の小説は今後もどんどん順調に増えてゆく、という意味である。だって、面白くて、愉しいのが小説だから。口直し、逃避、回復、気分転換。流石に憲法や政治の本からは斯様な効能、得られません。

 憲法関係の本と小説の読書が(いまのところ)両立しているのは、まったく性質の違うジャンルだからなのでしょうか。地続きではなく、或る程度の距離感があることで、ちょうどよい頭の切替ができているのかしれない、と思うのです……。◆

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第3679日目 〈義理と恩に報いて死ぬか。義理と恩に背いて生きるか。 選択すべき時、来たる。〉 [日々の思い・独り言]

 何度でもいう、わたくしは敗けたのだ。見通しが甘かった。始めるタイミングを読み誤った。責は自分にある。その咎、非難嘲笑は一身に引き受けねば。転嫁は、ズルだ。
 辛抱強く現在の状況に甘んじておればよかった。時が熟すまで、現在の状況に耐え忍ぶべきだった。目先のニンジンに飛びつく軽率を犯したために、怪我の完治を待つ余裕を失ったばかりに、墓穴を掘って敗残者に落ちぶれたのだ。
 完全なる四面楚歌に耐えること能わず。為、わたくしは自死を選ぶことにした。選ばざるを得ないところまで、追いつめられたのだ。誰の助けがあるのか。差し伸べてくれる手の持ち主など、この世にあるはずもない……。
 義理と恩に報いて死ぬか。義理と恩に背いて生きるか。
 選択すべき時のようである。◆

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第3678日目 〈衰えた力を取り戻す為に。──英語、を例にして〉 [日々の思い・独り言]

 英語の勉強をやり直したい。そう思うている。社会に放り出されて以後はご無沙汰な英語。使わぬ筋肉がやがて衰えるように、使わぬ知識も早晩衰える。わたくしの場合、その顕著なるものの一つが英語なのだった。
 この前書架の片附けをしていたら、棚の隅っこから薄っぺらいペーパーバッグが出てきた。Ursula K. Le Guinの”VERY FAR AWAY FROM ANYWERE ELSE”
 初めて挑んで青色吐息の末一年半がかりで読了したStephen King ”IT” (初体験の相手には余りに大物すぎた!!)のあとに読んだ、『ゲド戦記』の作者によるヤング・アダルト小説である。読了の直後にコバルト文庫から出ていた翻訳を古本屋で手に入れたが、自分の読解があながち間違っていないのを確認できて、ほっ、と胸を撫でおろした記憶がある。
 時は流れて、つい先日。Le Guinの、この、薄っぺらい(再々、失礼)ペーパーバッグを見附けて、懐かしさもあって読み耽ってしまった──
 ──といいたいが、然に非ず。初稿で書いた実例はここでは省くが、まぁ、基本的なレヴェル──中学英語のレヴェルで、怪しくなっていたのだ。愕然としましたよ。
 この冷酷な現実から目を背けることは、できなかった。使わぬ筋肉に喩えて読書の中断が招いた読解の低下を嘆いた。新しい世界を知る愉しみを自ら放棄したことを悔いた。そのささやかなる反省と反動に拠るのだ、英語の勉強をやり直したい。そう思うたのは。
 さしあたってなにを読むか、すぐには決められない。現時点で候補になる本は決まっていない。ただ、本稿の執筆の発端となったLe Guinは避けた方が賢明だろうな。Cambridgeの本屋で購入したSHERLOCK HOLMESのComplete Storiesも挫折したときのショックの深さを思うと、同じく避けるが吉か。つまり、候補作ではなく除外作を先に考えたのだ。──え、ネガティヴ・シンキング? うん、そうかもね。でも、まずは多読して足腰を鍛えることの方が先決でしょう。
 読む作品は追って検討するとして、──ラダー・シリーズのようなリトールド作品のシリーズや米国で使われている外国人向け英語学習テキストあたりが再学習の取っ掛かりには無難か──、自分の部屋へ戻って机上を眺めれば、これまで英文を読む際身辺にかならず侍らせていた英和辞典と文法書、読み物がある。これらがあれば極端に英文のレヴェルが高かったり、構文が複雑極まる代物を選ばぬ限り、♪どうにかなるんではなかろーか♪、と楽観している。
 衰えた筋肉の復活には、どうしても時間がかかる。焦らず急がず、根気よく、長丁場になるを覚悟せねばならぬ。衰えた「英語を読む力」についても、きっと同じだろう。焦らず急がず、ゆっくり、根気よく、──。◆

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第3677日目 〈自伝の一コマ。〉 [日々の思い・独り言]

 「一つの風景が次の眺めを誘う」──どこで知った文句であったか忘れたが、最初の小説(※)でそれを用いたのだけは覚えている。たしか推敲する前の、初稿の段階でそれはあったはずだから、かの文句を思い着いたかなにかで読んだかしたのは、17-8歳の頃であったろう。
 17-8歳! なんと夢見がちで、怖い物知らずで、可能性にあふれ、世間知らずだった年齢! 甘美な揺りかごのなかにいるのを許されるのは、あと数年ということも知らずに呑気に過ごしていられた頃……!
 わたくしにもそんな時代があったのだ。われながら信じられぬことではあるけれど、そうでなかったら「いま」生きてこうして文章を綴っていないからね。そんな時代があったことを信じてもらうより意外にない。
 しかし、なんと途方もない時間を過ごしてきたのだろう。年長者からは「自分より若いお前が、そんな達観したようなことをいうな!」と叱咤されるかもしれないが、半世紀超の人生を顧みて斯く感慨してしまうことを邪魔される謂われは一切、ない。
 途方もない時間を過ごした。どれだけ実りのある時間であったか──そうお訊ねになるか。実態を知ってのご質問か。そうなら、なんと意地悪で悪趣味か。答えは「否」だ。顧みて──長い目で見て、充実した人生であった、と満足できることはない。
 先輩たちと違って、長期的な人生設計図を描けなくなった世代が、われわれだ。しかもその原因は、われらにはどうすることもできない類のそれで……。中短期の仕事が世にあふれたお陰でどうにか今日まで生きてこられたけれど、もう限界のときが近附いている。わたくしは、敗けたのだ。時間の浪費と辛抱不足が、それを招いたのだ。
 歴史に「IF」なし。時間を遡ること能わず。いずれも承知している。が、もしやり直すことができるなら、17-8歳の頃へ戻りたい。その延長線上で会うべく人に会えなかったとしても、だ。その年齢ならば、まだ間に合う。まだ、生きている。正しい未来を選択できる。正しい道を外れることなく逸れることなく、歩いてゆける。
 だから──。

 彼[南王国ユダの王マナセ、連行先のバビロンで]は苦悩の中で、自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。(歴下33:12-13)◆



「初めて書いた小説」ではなく、自分の名前で世界へお披露目できる「最初の小説」の意味。
 これ(『六月の二週間』)に続くのは掌編「雪中桜」、『それを望む者に』、『ザ・ライジング』と『エンプティ・スカイ』、『人生は斯くの如し──ヘンリー・キングの詩より』、『美しき図書館司書の失踪』、くらいであろうか。□

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