第2810日目 〈2019年の終わりにあたり、読者諸兄へブログ主から一言。〉 [日々の思い・独り言]

 2019年も最後の1日となりました。
 いつも年の瀬は、なんだかあっという間の1年だったなぁ、と回顧すること多いのですが、今年はいつもとちがって、相応のスピードで流れていったなぁ、と感じております。母のガン宣告と入院・手術・通院、わたくしの聴力の著しい低下と退職そうして通院・就職活動、田舎の墓をめぐる身内相手の沙汰、等々あったにもかかわらず……。
 読者諸兄に於かれましては、今年はどのような1年だったでしょうか。
 殊に後半、日本列島を襲って猛威を揮った天災の被害に遭われた方があるかもしれない。その方々には心よりお見舞い申しあげると共に、立ちあがって生活再建の一歩を踏み出していただけたら、と願います。微々たる額ではありましたが、義援金がどうぞ有意義な形で被災地の復興に役立てられますように。
 また、よきことわろきこと、うれしきことかなしきこと、様々にあった方もあることでしょう。絆と縁と和に恵まれ、福を分かち惜しみ植えることできた1年であったら良いな、と皆様の幸を祈る者であります。。
 本ブログの話をすれば、予定では2020年7月中旬に3000日を迎え、また、開設12年目を迎えます。毎日の定時更新が今後も不断に行われ、長期休載の憂き目に遭うことなかりせば、という前提にあるお話なのは勿論ですが。読者諸兄のご愛読なくしてここまで続けることは、けっしてできなかった。感謝しております。
 さて。
 昨日で年内に済ませるべき掃除などの案件、或いはお買い物はすべて完了。大晦日にやらねばならぬのは、年越しそばの準備と神棚・仏壇の掃除(これいつも大晦日の行事なんです)、家まわりの掃除ぐらいか。服喪ゆえ松飾りの準備や年賀状書きといった作業から解放されているので、まぁそんな程度の作業でしょう。
 そうそう、明日で太宰治『もの思う葦』の読了も、目標に掲げよう。残り20ページ程なので、目標も心掛けるもないのですが。
 読者諸兄に於かれましては、良いお年をお迎えください。
 来年もどうぞ宜しくお願い致します。◆

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第2809日目 〈「お金」について考えること多かった1年でした。〉 [日々の思い・独り言]

 お金を増やしたいから、本多静六の本を読んだ。
 お金を活用したいから、村上世彰の本を読んだ。
 投資信託をしたいから、大竹のり子の本を読んだ。
 不動産投資したいから、金井和彦の本を読んだ。
 が、それだけではどうにも不十分でした。否、本や著者の価値云々ではない。読者たるわたくしの側に不真面目な部分があったが為に。
 ──今年は、自分の資産というものについて、いろいろ考える機会のあった年でした。いい換えれば、改めて<お金>の勉強に主軸を置いた1年でもあった。iDeCoもNISAも、株式投資も既に始めていたけれど、なんだか基本的なところに欠けがあるような、そんな不安に囚われたりもして。そんな矢先の今春、好機到来。まぁ家族のうえに一時的ながら暗い影が覆いかぶさったこともあり、<お金>の勉強をふたたび始め、きちんとした知識の履修に務め、実地で応用を学ぶことになったのでした。
 ファイナンシャルプランナー2級並びに証券外務員二種試験の受験・合格は、<お金>について考えるところがなかったらとうてい果たせなかったはず。宅建主任者の講習も履修してようやくペーパー宅建から脱出、それを免罪符に古巣の財閥系不動産グループに帰還できたことも、<お金>について真剣に考えることがなかったら、とうてい果たせなかった出来事でした。次は……住宅ローンアドバイザー資格の取得かな。
 いまの自分の目標まず資産面でいえば総資産5億、純資産2.5億を実現させること。次いで所有する収益物件を増やすこと、具体的には新築アパートを2棟、中古アパートと戸建を各1棟ずつ保有すること。出口戦略はまだ考えなくてもいい物件ばかりですが、視野には勿論入れておかないとなりません。
 ただ、未だ過去が尾を引いていることもあり、自分の属性がクリーンとは言い難い。金融機関もまだまだ審査の目は厳しい。門前払いを食わされることも、ずいぶんとありました。どの金融機関に打診しても、「取り敢えず稟議にはかけてみますね」という台詞を引き出せるようにならないと、アカンですなぁ。
 ……そんなこんなの1年が終わろうとしているいま、冒頭の本の話をアップデートさせるなら、こうなるでしょうか、──
 お金を増やしたいなら、本多静六の本を徹底的に熟読玩味して、実践するしかない。経験して、痛感しました。1/4天引き法を侮る者に、資産形成は不可能だと思います。ロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん 改訂版』は良い本ですが、原理や伝えたいことは本多静六のそれと変わるところは殆どありません。精々が「ラットレース」という概念を紹介している点が、差別化を図れるところか。とはいえ、そのラットレースに関する記述が、また面白いのですよね。
 「お金を活用する」と「投資信託したい」については、村上世彰と大竹のり子の本に加えて、永田雄三と田口智隆、横山光昭の本から学んだことがたくさんありました。
 不動産投資に関しては、金井和彦を振り出しに何10冊もの類書へ目を通した。そのうち、いちばん自分に響いたのは、不動産投資家育成協会と鈴木宏史の本でした。バイブル、とは大袈裟だが、これら以上に良くわかる不動産投資の本にには出合えていません。
 参考までに、本文に登場する著者の本、わたくしが読み耽って付箋を付けまくり、たくさんのメモを作成し、書棚の最前列を占めて本稿を書くかたわら積みあげた本のタイトルを、列記しておきます。1人の著者に本が複数ある場合は、自分に益あったと思うタイトルを原則として挙げました(原則=例外あり)。
 本多静六『私の財産告白』 実業之日本社 2005/7
 村上世彰『いま君に伝えたいお金の話』 幻冬舎 2018/9
 大竹のり子『これ一冊で安心! 投資信託のはじめ方』 ナツメ社 2019/3
 永田雄三『富女子宣言』 幻冬舎 2015/3
 田口智隆『「なぜかお金が貯まる」人がやっていること』 廣済堂出版 2011/11
 横山光昭『はじめての人のための 3000円投資生活』 アスコム 2016/7
 横山光昭監修『手取り17万円からの貯金の教科書』 宝島社 2014/10
 鈴木宏史『初心者から経験者まですべての段階で差がつく! 不動産投資最強の教科書』 東洋経済新聞社 2018/10
 不動産投資家育成協会『不動産投資 一棟目の教科書』自由国民社 2018/4
 不動産投資家育成協会『新世代大家 完全実行マニュアル』自由国民社 2018/4
 本多静六については渡部昇一が『財運はこうしてつかめ』(致知出版社 2004/9)という本を書いている。蓄財の話から起こして本田の生涯を語った、良い本です。また村上世彰には先日文春文庫に入った『生涯投資家』という好著がある。報道をさわがせた買収活動の裏側や自身の半生、投資理念を余すところなく語った、一読唸らされる1冊であります。ついでの折に、上記の本と併読されてみることをお奨めします。
 ──お金全般を語らせていちばんわかりやすく、かつ包括的なのは、泉美智子監修・坂本綾子著『お金の超基本』(朝日新聞出版 2018/8)でしょう。併せて読みたいのは、梅田泰宏『「税金」のしくみとルール』(改訂新版4版 フォレスト出版 2018/5)。投資をするなら『会社四季報』は必須アイテム、うまい使いこなし方の第一歩は渡部清二『「会社四季報」最強のウラ読み術』(フォレスト出版 2019/2)から。むろん、個人の見解であります。
 渡部昇一であったか、「恒産なくして知的生活なし」というたのは。お金や投資についてはじめて考えるきっかけは、この言葉だったかもしれません。◆

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第2808日目 〈後悔するぐらいなら、まず行動しよう。行動してから後悔しよう。〉 [日々の思い・独り言]

 今年最後の図書館行き、今年最後の書店での買い物、今年最後のラーメン屋、と最後尽くしの師走廿八日宵。今年最後のスターバックスにてコーヒーを飲みながら、『雅文小説集』と太宰治『もの思う葦』を読んだ。
 さんざん「今年最後」というたはよいが、じつは歳末といいう意識がまったくない。会社人はただいまちょっと休業中、為に忘年会も仕事納めもないが原因と思われる。すっかりサラリーマン生活が骨の髄まで染みこんでいる身に、この状況はかなり辛い。会社のお金でお酒が呑めぬとは……! というのは冗談としても、1年のケジメ、区切りの行事を経験できないのは、やっぱり世間から取り残された感を強く抱くのである。
 今上天皇の代替わりと改元、即位の諸儀式が立てつづけに行われた今年、平成31/令和元年、その後半は部屋の掃除と本・CDの選別処分に明け暮れた。おかげさまで架蔵する本と音盤の殆どを見渡すことができ、また改めて国文学と折口信夫・加藤守雄研究へ気持ちが立ち帰ったことで、<失われた20年>の重さと前後の断絶を突きつけられた後半でもあった。
 が、恩恵というべきか、それらの本をふたたび外気に曝したことで、書いておきたい材料が幾らも見附かった。クリスティの逸話の1つに、お風呂にはいって林檎をかじっているとき、小説のアイデアが浮かぶ、というのがある。それにあやかればわたくしは、「アイス食べたい……」と床の上をごろごろしながらおねだりする瞬間ではけっしてなく、……やっぱりお風呂でのんびりしているときか、その日のブログの話題、その端緒を摑むのは(けっこう出たとこ勝負なところがある。反省すべきだろうか?)。
 ふとした思い付きがわずかの時間で大まかとはいえ形を成し、記憶を頼りにあたった文献がドンピシャでかつ必要箇所へすぐにアクセスできるのは、むかしの記憶とカンに助けられている部分が相当大きい。ちかごろ国文学や研究者たちに因んだエッセイを、折節本ブログにてお披露目しているのはたぶん、専門書の相次ぐ発掘と整理が根っこにあってこそのことかもしれない。いつに変わることなく平均2時間で1本を書きあげられているのは、記憶(蓄積)のおかげ、本があるてふ自信のおかげ、というより他にない。
 今日新刊書店で購った本の1つは、予約注文していた善渡爾宗衛・杉山淳編『荷風を盗んだ男 ──「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)である。荷風「来訪者」のもう1人のモデル、猪場毅と春本『四畳半襖の下張』をめぐる、いわば関係各位の証言集だが、このような本へ接するに及び自分のなかに一種の焦燥感が生まれているのを、最後に告白しておきたい。
 もしかするとわたくしが来年実現すべき自著とは、聖書各巻の<前夜>にエッセイを加えた1冊ではなく、積年の宿願である加藤守雄著作集・著作目録の編集・解説なのではあるまいか。全3巻別巻1、限定100部ぐらいで、寄贈先は選定済み。
 ちかごろ信長伝で専らおなじみな幸若舞「敦盛」の一節が、つくづく身に応える。人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。◆

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第2807日目 〈部屋のお掃除;<パンドラの箱>をすべて開けてみた結果、とんでもないことに。〉 [日々の思い・独り言]

 大掃除のために買ったデッキブラシの到着日を1日間違えたので計画変更、予定入れ替え。明日をアパートの廊下の掃除日とする。
 では。
 困ってしまった。廊下に積んである<パンドラの箱>こと某倉庫会社にながくあずけていたダンボール箱を開梱したら、とんでもないことになっている。合計6箱を開けて、中身は火事以前にあずけていたゆえ綺麗な状態の本、本、本、おまけのようにコミケで入手した同人誌……。これをすべて取り出すと、どうなるか……。
 本の過半は古典のテキスト、上田秋成と折口信夫の研究書が占めていた(特集雑誌や大学紀要を含む)。意外だったのは中公文庫版折口信夫全集全巻が残っていたこと。いまはもうない伊勢佐木モールの古書店へ売り払ったとばかり思っていたからなぁ。『短歌』創刊号があるのは知っていたけれど、どうしてだろう、西村亨編『折口信夫事典』(大修館)が2冊もあるのは?
 西村亨の著書は『折口名彙と折口学』(桜楓社)という本が、一緒に出てきた。これを購ったのは、加藤守雄の件で問合せの手紙を出して、そのお返事をいただいたあとか。それとも、礼儀として著作を購い読んで、質問の枕に感想など認めたものであったのか。手紙の下書きが見附からないのでよく覚えていない。けっきょく直接お目にかかる機会のないまま、加藤の思い出をもっとお伺いすることもできないまま、いまに至っている。
 さて、問題の『折口信夫事典』だが、あっけなく解決したことをまず、ご報告させていただく。結論から申しあげれば、わたくしが架蔵するのは初版と増補版なのであった。1988年7月刊の初版と、1998年6月刊の増補版。いずれも編者・執筆者・出版社は変わらない。
 「可能な範囲で内容面のより正確な、より新しい見解を加えることとし、また、著作解題や研究文献目録にはこの十年間の新出資料を加えて、いっそうの便宜を図る」(増補版 P763)ことを目的に再編集された増補版1冊あれば事足りるのであるが、どうやらわたくしはこれの出る前に、出ることを知らずに旧版をどこかの古書店か当時の勤務先で購入したと思しい。たぶん、都内の図書館から一時期頻繁に借り出して読んだのが発端となり、やがてこれを手許に置いておきたいという望みがふくらんで購ったのだろう。それから旬日経ぬうちに増補版が刊行され、どこかのタイミングでそちらも購入したらしい。結果、『折口信夫事典』は2冊架蔵することとなり、旧版は倉庫にあずけ増補版を部屋に残し、後者はやがて火事の痕跡を留める結果となった。
 古典のテキストに関しては、本心から当時の自分を誉めてあげたい気分である。よくぞこれだけのものを散逸させることなく、そうして関心が薄れていたとはいえ処分することなく、ダンボール箱へ詰めこんだものである。未練がましさと潔さが、いまの僥倖をもたらしたのだ、とは言い過ぎか。
 岩波書店の旧新両大系がかなりの冊数あるのは勿論として、びっくりしたのは冷泉家時雨亭文庫や明治書院の和歌文学大系がまとまった形で眠っていたこと、三弥井書店の<中世の文学>から『風雅和歌集』註釈本(次田香澄・岩佐美代子)と岩佐美代子『木々の心 花の心 玉葉和歌集抄訳』(笠間書院)が処分されずに残っていたこと、である。
 就中『風雅集』と『玉葉集』の註釈には驚かされた。和歌に関心を抱き、岩波文庫の八代集と新勅撰、玉葉集を読み、一方で定家を核にして中世和歌を読み散らしていた時分、すくなくともわたくしの知る範囲で玉葉風雅の註釈本は殆ど存在していなかった。そうした矢先に出会ったのが、先の2著。舐めるように読み耽ったのを覚えている。読み進める途中、心のどこかに中学時代の折口のエピソードも宿っていたかもしれない。それよりもなによりも枯れきって生彩をなくしてゆく一方の十三代集のなかにあって『風雅集』と『玉葉集』は、八代集の時代を思い出させる雅やかな雰囲気と、『万葉集』を彷彿とさせる朴訥さとおおらかさを孕んだ、正統とも異様とも取れる勅撰集に感じた。爾来、わたくしはこの2つの勅撰集のファンである。
 ──同人誌についていえば、こればっかりはもう持っていることの無意味さを感じて、ごっそりとゴミ捨て場へ運んだことだ。『天空祭』(青心社)をきっかけに荻原征弥の作品にハマって夏冬のコミケへ通い続けたところ、溜まりに溜まることとなったFUKURO KOUJIの同人誌だけは1点も散逸させることなく脇に避難させたが精々か。サークル名も作者名も忘れたけれど、『レイオノレー』というハイ・ファンタジー長編を15巻まで読んでいたが、この作品は完結したのだろうか。
 斯様にして<パンドラの箱>が開けられた結果、だいぶすっきりしたはずの部屋は再び床に本が積みあげられて、幅約1メートル、奥行き約25センチある幾つかの山が作られる羽目と相成った。書き忘れるところだった、高さは約70センチ程である。やれやれ……。
 正月休みはふたたび、本の収納と処分に悩まされることになりそうだ。◆

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第2806日目 〈冬の夜長に怪談を訳すこと。〉 [日々の思い・独り言]

 みくらさんさんか、カレンダーを睨んで考えることには、明日はアパートの清掃最終回(でも確か天気予報は雨!)、明後日は廊下のダンボール箱を開梱してなかの本を引っ張り出す、そんなこんなでやはりのんびりできるのは晦日か大晦日あたりからかなぁ、と。
 それでも夜まで作業が食いこむ日は明後日を除けばあり得ないから、宵刻からはブログ用の原稿を書き、太宰『もの思う葦』を読み、その傍ら有朋堂文庫の『雅文小説集』を愉しむ時間は取れそうである。悦ばしき哉、はやくから大掃除を兼ねた片附けに勤しむことは。哀しき哉、この現状を生み出すに至ったわが身の惨事ぞ。
 平井呈一は『怪奇小説傑作集』第1巻の解説の〆括りに、こう書きました。このジャンルのプロパーならば誰しも暗誦できる名文であります。曰く、「この文庫ではじめて恐怖小説を読まれて愛好者になられた方は、これを機会に、語学の勉強にもなることですから、ぜひ原書で恐怖小説に親しまれることをお奨めします。(中略)冬の晩、字引をひきひき恐怖小説を読む醍醐味はなんともいえないもので、いちど味わったら長く忘れることができないものです。試みにはじめてみられるといいと思います」(P393 創元推理文庫 1969/2)と。
 これに誘惑されて実行した人のうち、わたくしもその1人。イギリスの怪談実話のパンフレットを戯れに訳してみたが、どうにも日本の古典を古語辞典や古地図、有職故実や官職要解を傍らに置いて、炬燵に潜りこんで蜜柑を食べながら読む方が性に合っているようで、こちらの記憶の方がやたらと強く残っている。学生時代から昨日に至るまで、わたくしにとっては毎冬の恒例の如き行動である……昨日?
 然り、昨日のことだ。ふと思うところあり、都賀庭鐘『英草子』を開いて漫然と目次をながめ、記憶をほじくり出してアタリを付けて開いたるは巻四第六話「三人の妓女趣を異にして各名をなす話」である。とくに突出した作品ではないが、社会人なりたての頃に有朋堂文庫で読んで感激して、一時は秋成よりも庭鐘に傾倒するきっかけとなった1編。
 庭鐘は秋成に医学を教えたとされる人で、近世読本の祖にして随一の実力を誇った。読本のスタイルを確立させた功労者の1人でもある。その著作はすべてが翻刻されているけれど、手軽に読むことのできるのは本作と『繁野話』、あとは『莠句冊』ぐらいか。
 今夏、つれづれの慰みに筆を執って或る本の企画を立てました。企画という程ご大層なものではないかもしれないが、好きで読み漁ってきた近世期の怪談から好きな作品をピックアップして暇にあかせて現代語訳を試み、各編に「鑑賞の手引き」と「作者の横顔」を付けて、1巻に仕立てようという企み。浅井了意『伽婢子』を読んでいて、思い着きました。「曾呂利物語」にも良いエピソードがあった。色好みの戒めを説いた説教談でもある「色好みなる男、見ぬ恋に手を取る事」は、なかなか凄惨で翻訳の心をくすぐられた。そうして件の本の企画を思い着くやたちまち候補作があとからあとから思い出されて、それを書き留めるだけでもう十分ではないか、というぐらいの量をモレスキンのノートへ書き留めることになった。むろん、『雨月物語』『春雨物語』というビッグ・ネームは外せないまでもそれが幅を効かせることはないよう案配して、と……。
 冬の長い夜に炬燵へ潜って蜜柑を食べながら、憧れの時代に心彷徨わせつつ往古の怪談の翻訳の筆を走らせるのは、なかなか経験できない至福の時であると思います。◆

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第2805日目 〈海辺の思い出──太宰に触発されて。〉 [日々の思い・独り言]

 山に囲まれた土地での生活が想像できない。平野部のどまんなかで暮らせる自分が考えられない。なんとなれば、われは海の子、海ある街でしか暮らしたことがないゆえに。
 そうはいうても生まれ故郷であり終の住み処となるであろう横浜では、海は眺めるものにして戯れるものに非ず。名所というも過半が背景に海なくしては成り立たぬ、またその魅力も半減する場所が専らで。
 東京湾で泳ごうなんて物好き、そうは居るまい。潜ったり溺れたり、鶴見線の終点駅から落っこちたり、鉛の玉を喰らって浮かぶ羽目になったならいざ知らず。ここは釣りをするにも不便な街じゃ。大黒ふ頭に海釣り公園、数えればもっとあるんだぞ。そんな声が聞こえてくる。が、大黒ふ頭はともかく海釣り公園で釣り糸垂らすのって、なんだか味気なくない? 釣り堀のでっかいヴァージョンみたいな錯覚に、わたくしはいつも囚われるのです。それに釣り場ではなくレジャーランドでしょう、あすこは。
 神戸。ここも事情は変わらぬ。もっとも幼少期の半年ばかりしか住んでいないのだから、仕方がない。
 やっぱり沼津だ。後ろに愛鷹連峰そうして富士山、目の前は駿河湾である。潮の流れ激しく湾内に深海を擁す、世界に稀有なる駿河湾。
 たくさんの思い出がある。いまよりももっと幅のあった砂浜で遊んだ(海面上昇の報道を本当のことと実感させられる。今昔の風景を見較べてみるとよい)。花火をした。バーベキューをした。水平線の向こうへ沈んでゆく夕陽を堤防に坐りこんで見送った。テトラポッドのなかに秘密基地を作った。宵刻の海上に漂う影を見た。口裂け女対策を友どちと真剣に練った。堤防の遊歩道をずいぶんと遠くまで歩かされた。台風の来た日に高さ10メートル超の堤防を歩いてどこまで進めるか、度胸試しを試みて大人に見附かってこっぴどく叱られた。勿論釣りもした。泳ぎもした。体にコールタールをくっつけた。エトセトラエトセトラ。
 やはりわたくしにとって海とは駿河湾を意味する。東京湾よ、瀬戸内海よ、相済まぬ。不義理と罵られることは覚悟している。
 殆ど毎日駿河湾を眺めて暮らし、波に戯れて遊ぶ日を過ごしていたら、致し方ないことか。だからこそ海への愛着は強く深くあり、水平線の向こうの世界への憧れを募らせて、一時は東京商船大学(当時)に行って将来は船乗りになる、と決めていたのも、まぁ宜なるかな。
 それがいまではどうでせう。東京のまんなかで生活費稼ぎの仕事に従事して、砂を噛むような日々を過ごしている有り様ですよ。とはいえ子供の頃抱いた夢をいつの間にやらどこかへ置いてきてしまったからこその現在であり、亡き婚約者やおぐらんとも出逢えたのかなぁ、本ブログを書いていられるのかなぁ、とつくづく思うのでありますよ。
 そういえばちかごろ気になって読んでいる詩人、丸山薫も海に憧れ、東京高等商船学校へ進んだ履歴を持つのですよね。<海>を介して抱いたシンパシー、といっても良いのかな。余談と知りつつ書いてみた。
 そのうちにLLSの聖地巡礼騒ぎも消滅する未来が実現するでしょうから、そうなったら沼津に帰って黄昏時の駿河湾を眺めて家族や友どちのことなど、思い出して回顧の文章など綴ってみたいですね。◆

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第2804日目 〈きょうの日に語られるにふさわしいお話を;11年前の恋の夢。〉 [日々の思い・独り言]

 文京区のシビックホールに用事があって来ました。どうしてもあの日、あの夜のことが思い出されます。信じられますか、あれからもう11年が経ったのです。
 あの夜の催し物は2日間の興行で、どこかのバレエ教室の発表会でしたが、どのような内容のプログラムであったか、よく覚えていません。覚えているのは会場前の列が道路の方にまで伸びており、30分前で蛇行状態になっていたこと。その蛇行状態の列を館内誘導するにあたって、あなたが先輩の功を見せつける見事な列誘導を行ってくれたこと。開演前の小1時間の早い段階でクッションやストールがすべて捌けてしまったこと。開演中にどこかの業者が彷徨いこんできて、一時的に無線がパニック状態になったこと。休憩終わりの客入れにてんてこ舞いしているときに、どこからともなくあなたが現れてあっという間に客入れを完了させてしまったこと(あのときのあなたの妖艶な笑みを、未だに忘れられません)。そうして、最終日に荷物をまとめて社員の方々と一緒に有楽町へ戻ろうとしていると、あなたが誰もいなくなったロビーに友人としゃがみこんでいたこと。あのとき、どんな会話を交わしたか、それともなにも話さなかったのか、よく覚えていないのです。
 あのとき玉砕覚悟で声をかけていたら、未来はどのように変わっていたのでしょうか。もちろん、現在となにも変わっていない公算の方が大なのでしょうけれど、どうも未練たらしくあの夜の「if」を考えては、自分の情けなさに嗟嘆してしまうのです。かりに永続しない関係だったとしても、なにかしらの楽しい時間は過ごせたかもしれない。なんというても世間の浮かれるクリスマスでしたからね。その時間を大切な思い出にして、そのあとの人生を無為に過ごすことにも堪えられたことでしょう。
 とはいえ、あのときのあなたは翌春に大学卒業、総合商社への就職を控えた女子大生だった。まぁいろいろと人生に疲れを感じ始めてもいた30なかばの男には、過ぎたる相手であったことはよく承知しております。でもねぇ、好きだったんですよ。わたくしもなにやら大なり小なりの噂を耳に挟んだことはありましたが、どうかそれがあなたを不快にさせていなかったことだけを、遅蒔きながら祈ります。
 奇しくもわれらは同じ財閥グループの企業に勤める者でしたが、こちらが住宅を売るための営業に勤しみ契約書をチェックしたり、残物件の購入希望者の掘り出しに溜め息したりして地べたを泥臭く這い回っている間、あなたは誰も知らない見たこともない外国で、歴史に残るような仕事にかかわっているとあっては、どうしてあなたの近くで生きることができましょう。よくいいますね、住む世界が違うのだ、と。それを実感しました。でも、しかし、気持ちがそれでねじ曲げられることは終ぞなく、ぐっさりと心へ突き刺さったまま現在に至っています。
 美と才を備えたあなたのことだから、もう家庭を持っている身なのかもしれない。すくなくとも、あなたを幸せにしてくれる人はそばにいてくれるのでしょう。それならいいのです。わたくしはハンス・ザックス、諦念を知る者です。とはいえ、──
 “Die Hoffnung lass ich mir nicht mindern,nichts stiess sie noch über'n Haufen.”
 “私は少しも希望を捨てていませんよ。希望とはそう簡単に消えるものではないのです。”
(ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕第二場)
 ──よいではありませんか、きょうはクリスマスです。葬られた恋の夢を語るにきょう程ふさわしい日があるでしょうか?◆

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第2803日目 〈書斎旅人の妄言。〉 [日々の思い・独り言]

 京浜急行が大好きです。大好きすぎて、通勤の経路を選ぶ際は如何にして京急に長く乗るか、乗れるか、を基準に考えています。乗るのも見るのも、路線図を眺めるのも時刻表を眺めるのも、大好き。特定の区間ではとなりを走るJRに喧嘩を売らんばかりの勢いで、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げる(これ、ホンマやで?)。僅差で横浜駅に滑りこんだときの、体の芯からほとばしり出るアドレナリンの分泌量は、ちょっと他では経験できない程であります。高校時代から今日に至るまでの数十年、通勤通学遊びで使っているともうこの赤い電車は日常にあるのが当たり前の存在。もうあまりに愛が過ぎて、京急の株まで所有してしまっています(ぶふふ)。
 電車に乗っていると、旅に出たくなる。満員電車に揺られてふと、扉の上の路線図が目に入るとじーっ、と見詰めている。駅名を読み、乗り換え路線をチェックし、どうやって誰にも会うことなく遠くへ行き、日帰り旅行を愉しむか、てふあらぬ計画を立てている。
 路線図をお確かめいただければおわかりのように、京急は羽田空港と成田空港を擁し(成田空港は接続路線である京成線だけれどね)、南は三崎に横須賀逗子、途中に横浜川崎(蒲田)品川を持ち、浅草線に入っては三田に大門東銀座、そうして日本橋に浅草があり、京成線になってからは柴又と成田空港を持つ。完璧な布陣じゃん。日常からの逸脱を誘う、イケナイ路線が京浜急行なのである。ターミナル駅を使えば神奈川県下を縦横無尽に移動でき、東京都内だって行けない場所はどこにもない(ビバ、地下鉄)。完璧な路線ジャン。
 それはさておき、時折ふと旅に出たくなるのは事実である。羽田空港に用事あって行ったときなんて、お金があったら当日の搭乗券を買ってどこか遠くへ行ってみたいもん。いけませんな、この尻軽というか遊牧民みたいな企みは。拠って立つべき日常の基盤を失うことにもなりかねない。やるなら退職後か定年後にやりなさい、って感じだよね。
 とはいえ、そんな風に旅に出たいどこかへ行きたい、と騒ぐなら、具体的に行ってみたい場所はあるのか、と訊かれたら……しばらく考えちゃいますね。いま自分が本心から行ってみたいのは、どこなのだろう。何日出掛けるか、でまた話は相当変わってくるが、家族旅行でも友人知己を誘っての旅行でもなく、たった独りでふらり、と足を向けるなら……?
 日帰りなら県下に遊ぶか、都内なら昔なじみの場所でしばらく訪れていない所で人目を避けるか。だいたい迷いに迷って無難に鎌倉へ行くんでしょうね。藤沢から江ノ電に乗って極楽寺や長谷で途中下車して谷に迷うて出たとこ勝負の探訪と洒落こむか、鎌倉まで行って小町で買い物食事、そこから逸れて清方美術館を久しぶりに訪れるか、或いは幕府時代の遺構を訪ねて歩くか。
 まぁ、正直なところをいわせていただくと、数日行方をくらませて、信州か北陸に行ってみたいな、と。長野県なら小諸や佐久、鏡花の小説でおなじみな「木曾街道奈良井の宿」とかね。諏訪や蓼科には当方、格別な思い入れと思い出があるので、チトこの逃避旅行の行き先には相応しくない、と自粛。
 北陸かぁ、北陸なら断然、金沢と芦原ですな。芦原は素敵な所だった。田んぼの向こうに落ちる夕陽、あれは忘れられない光景だった。宿も温泉も人も食事も、申し分ない場所。贅沢が許されるならば、1年に1度は投宿したいところである。そうして金沢。芦原と違って申し分ない宿は見附けられていないけれど、市内にはお気に入りの場所が幾つもある。そうして訪ねたけれど休みで目的を果たせていない観光スポットも、幾つかある。その代表格はなんというても泉鏡花記念館。わたくしが行ったときは企画展かなにかのために展示品の入れ替えを行っていて、なんともタイミングの悪いときに訪ねてしまったものだ、と近くを流れる浅野川を眺めながら嘆息したものであった。金沢城址も能楽博物館も、室生犀星記念館ももう一度行ってみたいなぁ……嗚呼、そういえば金沢21世紀美術館も休館日で入ることができなかったんだ! ここも忘れちゃいけない。そういえば武家屋敷も見学していないな、家族は行ったそうだけれど。
 で、こうして倩書き出してみて、あれ、と思うた。東日本から出る気は、どうやらわたくしにはなさそうである。いや、アンチ西日本なわけでは決してない。大好きですもん、奈良も滋賀も、あと京都も。滋賀県は比叡山しか行ったことがないので、びわ湖ホールへオペラを観に行くのと一緒に琵琶湖をゆっくり回ってみたいですね。そうそう、鳥人間コンテストの時期だけは外さなくっちゃな。
 もう一つ、あれ、と思うたのだが、むしろこちらの方が、昔のわたくしを知る人間にいわせれば、あれ、というかもしれない。地方の祭りや民俗を訪ねる旅、という視点がまるで欠けていることだ。かつては折口学や恩師の学問に触発されて、雪まつりと花祭りを契機に諸地方の夏祭りや暮れの行事、或いは黒川能を始めとする衰退を始めた伝統芸能の採取を行い、民俗学の領域に自分の居場所を見附けたかったのだ。そのきっかけにもなった隠岐への旅行は、未だ果たせていない……。
 わたくしが本格的に(というてよいか)電車好きになったのは、ダーリン・ハニー吉川さんの旅番組を見たのがきっかけだ。それまでのただ漫然たる「好き」ではなく、もう一段階二段階のぼったところにある「好き」。そうしてそれが、旅行への燠火のような憧れを抱かせるに至った。その根源は他所の土地への好奇心と憧れ、折口信夫・柳田国男・早川孝太郎・宮本常一の民俗再訪と記録、その弟子或いは継承者たちの更なる探訪記を読んだのが、出発点。書斎の紙上の旅行から表へ出た、地に足着けて棒にするまで歩き続けるような旅行への移行。が、いまなお荷物を提げてどこにも行かぬところを見ると、わたくしはまだそんな旅行をするだけの強い動機や衝動、情熱というものを持っていないようである。◆

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第2802日目 〈折口信夫『日本文学史ノート』を読んでいた頃。〉 [日々の思い・独り言]

 中央公論新社からの新しい全集が出るより前に架蔵していた折口博士のちょさく、ですか。そうですね、文庫版旧全集(ノート編は含まれず)が中核で、他は2冊か3冊ぐらいでした。
 角川文庫版『古代研究』全3巻は神保町や高田馬場の古本屋をまわっても容易に見附かる類のものでなく、運良く全巻揃いで発見できたとしても高嶺の花で、とうてい手の出る代物ではなかった。折口の著作で当時、新刊書店に並び、古本屋を捜してすぐに見附けられるのは、中公文庫の『死者の書』ぐらいではなかったでしょうか。ちょっと記憶を頼りにお話ししているので、遺漏や錯誤等あったらご指摘の上どうぞご容赦の程を。
 そんなわけだから新全集刊行以前に自分がどのようなルートで『日本文学史ノート』全2巻の単行本を入手できたか、よく覚えていないのです。目録を毎回送ってもらっていた古本屋の可能性がいちばん高いのだけれど、もしかすると日本文学専門の古書店や、或いは中学生時代から通っていた県下最大級の床面積を誇った古書店の一角で見附けたのかもしれない。そのあたりは本当に、よく覚えていないのです。
 それは後に旧全集ノート編第2−4巻に収められた本で、折口が慶應義塾大学で講義した内容を愛弟子、波多郁太郎が丹念に書きためた講義ノートを翻刻したもの。
 ざっと目次を一見しよう。「Ⅰ」では祝詞や歌垣、大歌や部曲の発生・特徴から始まり、風土記に古事記日本書紀、有力豪族の家に伝わる伝承について講義され、「Ⅱ」では万葉集民謡、古今集を振り出しに短歌文学の歴史と解剖、女房文学や物語文学の発展を内容とする。「文学史」といいつつ、われらに馴染みある古典文学史とは勝手の異なる部分多々ある、発生論から話を起こした折口信夫ならではの文学史講義の記録である、というてよいでしょう。
 わたくしもこの目次を一瞥したときは、思わずたじろいで「とんでもない本を買ってしまったぞ」と若干の後悔、それを上回る興味と向学心から家にいるときは巻を開いて、理解がおぼつかぬながらも「Ⅰ」のさいしょから「Ⅱ」のさいごまでまるごかしに読み進めたものであります。自分が関心あるテーマへ差しかかると俄然、読書姿勢が前のめりになって朧ろ気ながらわかったような気になれたのですから、就職浪人中の雑多な読書や恩師への親近、くわえてその恩師の勧めで三田の山にて学ぶようになったことはそれなりに、件の本を読むための基礎体力作りになったと思うのだが、それがそのまま折口学の理解に結び付くかというと、そう簡単な話ではないのが辛いところ。
 全集を読んだりこうした単著を読んでみても、わたくしはまだまだ折口信夫の学問を把握していないのだろうな、と諦めにも虚しさにも似た溜め息を吐いてしまう。日暮れて道遠し、そんな言葉がふと脳裏に浮かぶのでありました。正直なところ、折口の弟子たちが著したり編んだりした作物を読む方が、折口学を深いところまでわかったような気にさせられるのですよね。……あくまで「気になる」というのであり、そこに安住してしまうては当然、いけないわけですから、その点は自分を諫める必要がありますね。
 然り、講義という性格からか、全集に収録される諸論文よりもこちらの方が比較的敷居は低いように感じられてしまうのです。軽い気持ちで手にしてページを開くと、わたくしのように後悔したり目眩起こしたり、そんなふらち者が続出するように思います。注意していないとうわべを素通りするだけで、その口吻の裏に隠れた微妙なニュアンスを取り逃してしまいがち。逆説めくがそれだけに予断許さず腰を据えて文章を追ってゆき、時に出典にあたる労を厭わぬ姿勢が必要になるのだ。
 わたくしは機を見て再び(2度目、という意味でなく)『日本文学史ノート』を読んでみようと思う。その際は旧全集(ノート編含む)と新全集を傍らに侍らせることになろうから、その前に部屋の掃除を更に進めて空間作りに勤しまなくてはなりませんな……嗚呼!
 本書の元となった講義は、昭和6−8年度の慶應義塾大学で行われ、ノートの記録者である波多郁太郎は三田に於ける折口門下の一人。最も早い時期の教え子ということもあって折口は殊の外可愛がったようだ。歌人として『水の音』てふ歌集を持つが、これは早逝したかれを想うて編まれた遺稿集である。折口はその序文に、「私が隠居する日のために、何と言っても、郁太郎は、長男らしくとり立てておかねば、と思い思いしていた。(波多の死は)私の塾でした為事の一部が摧けてしまった。そう言う気持ちであった。」と書いた……。
 なお、池田彌三郎は著書『わが師・わが学』他で何度となく先輩・波多郁太郎に触れ、また波多の日記を『わが幻の歌びと人たち 折口信夫とその周辺』(角川選書 昭和53年7月)で全文翻刻紹介している。◆

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第2801日目 〈痕跡本をこそ愛おしむ。〉 [日々の思い・独り言]

 おそらく今年最後の発掘作業を、本日より開始した。正確には「昨日」からなのだけれど、まぁそのあたりの詮索はご遠慮いただくとして……。
 先達てさわいだ清水幾太郎の『この歳月』(中央公論社)だが、ちょっと想定外の場所にて発見、慎重なる発掘作業の末に陽のあたるところへ運び出し、清掃を済ませていまは机上にあって視界の端で他の書物と一緒に、十数年ぶりに読書のためのページが開かれるのを待っている。いや、まさかこんな場所にあったとは。こんな場所とはつまり、紐で括られた東京古典会発行『古典籍大入札会展観目録』の山の下を指す。
 これもまた火事をくぐり抜けて処分するに忍び難いの一念から煤や粉塵を簡単に払って、後日の再会を約してダンボール箱の蓋を閉め、自宅の解体作業の傍らそのまま倉庫で眠りに就いた数多の書物の内であるが、流石にいまこうして再会を果たしてみるとなんとも無念な気持ちに襲われる。一緒に発掘した古典や民俗学にまつわる種々の書物が、なおさらその感を倍増させるのだ。
 たとえば前述の清水の本。函入りであったはずだがそれが見当たらぬところから察するに、おそらくわたくしは解体を控えた自宅の退去日の迫るなか、不安ばかりで希望の一欠片もないあの夏から秋にかけてのどこかの日に、泣く泣くそれを棄てて顧みることをしなかったのだろう。当然だ、感傷に後ろ髪引かれ続けていては前に進むことはできなかったのだから。<進むべき道はない、しかし進まなければならない>というノーノの曲のタイトルを実感として噛みしめたのは、このときこの経験が最初である(最後、といいきれないのが残念だが)。
 裸本で発掘された清水の件の本は、というわけで背表紙にのみ煙を浴びた痕跡が残っている。むろん本体の天、花ぎれに近い箇所にもわずかながらそれは認められるが、簡単な拭き取りで黒い煙の跡はどうにか薄まってくれる。
 が、背表紙はなかなか難しい。完全なる原状回復は到底不可能なレヴェルだ。それでもノンアルコール・タイプのウェットティッシュで丹念に、根気よく、さっと拭いたり軽く叩いたりを繰り返していると、どうにか煙の跡も薄まり、見えなかった金箔押しの書名と著者名が見えてくる。いちどの作業では難しくても、二度、三度と同じ作業を続けていれば、もう少し綺麗になってくれるだろう。
 とはいえ、金箔押しされた書名は、高熱を孕んだ煙の前には抗いようのないが本来で、書棚の上に鎮座坐していた岩波新古典文学大系の、テレコにして本体の背表紙をこちらへ向けていた巻は軒並み箔が剥がれ落ち、おまけに煙がもう拭いようのないぐらい本体へこびり付いてしまい、これを見る度あの日の惨状をつい先程の出来事のように思い出してしまうのは、どうかもう勘弁してほしい。
 以上は本体に残る痕跡のお話だったが、もう1つ、今回の発掘で別に思う無念があったので、それについて簡単に触れて終わるとしよう。清水の本についてそれはかつて函入りであって、当時処分したことを上に書いた。今度は函入りで発掘された或る本にまつわるお話だ。
 池田彌三郎『わが師・わが学』(桜楓社)と坪田譲治『新百選日本むかし話』(新潮社)──両方とも函入りの状態で再会した。本体に火事の痕跡は認められない。あってもさして気にならない程度だ。もとより古い本で天や小口が茶色くなっているせいで目立たない、というのが本当のところであろうけれど。煙や熱に曝されない場所にあったのかもしれない(すべての本が火事の痕跡を留めるわけでは、まさかあるまい)。が、それ以上に本体へわずかのダメージが見られない理由が、──
 函の存在である。上の2冊はいずれも函入りであった。函が火事から本を守ったのだ。それが証拠に、この上部にははっきりと煤を拭った形跡が見られる。喜ばしき也、どちらもわたくしには大切な本なるがゆえに。されど手にした途端、函はもろくもばらけてしまった。書名の印刷された背の部分と天地の部分が、表裏の表紙部分から見事に剥がれて、大黒柱や構造壁を失った戸建のように崩れて無残な姿を晒している。哀しい光景だ。胸が締めつけられるような思いがする。どうにか修繕しようにも、素人技では遅かれ早かれいまと同じように瓦解するのがオチだろう。プロの修繕業者……? 引き受けてくれますか、この程度であっても。
 昭和30年代40年代に出版された本の函はもろいな、と、視界の端にある無残な姿をちらちら見つつ、斯く思うのでありました。◆

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第2800日目 〈埋もれるを潔しとしなかった劇作家、池田大伍。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日書いたことに自ら影響されたか、また図書館へ出向いて池田大伍の戯曲が載った本を借りてきた。一緒に、どうやらずいぶんと前に処分してしまっていたらしい『元曲五種』も。
 図書館が蔵する大伍の作品集は、いずれも戦前戦中の出版物のため禁帯出扱いで、書庫から出してもらって閲覧するが精々だった。昭和17年11月刊『池田大伍戯曲選集』(武蔵書房)を兎にも角にも書庫出納してもらい、半日を費やしてざっと一読。専ら時代物に編を絞った1冊ゆえ斯く思うは当たり前かもしれぬが、登場人物は端役に至るまで瑞々しく描かれてその台詞もなかなかに粋で、読むだけでこうまで面白く、ページを繰る手の急くのを留めるのもやっとなぐらいだから、実際の舞台へかけられたところを観たらさぞかしさぞかし……と思うのだ。ダメ元で大伍劇の上演が近々あるか、様々な劇場のHPを検めてみたが残念、空振りに終わった。
 正直なところ、同時代を見渡せば岡本綺堂や小山内薫など、劇作のビッグ・ネームが控えて観客を愉しませていた時代の人ゆえ、池田大伍の作品なぞ初演終わりで幾度となく再演を重ねるようなものなど殆どなきに等しいのであろう、そうしてその程度の位置を占める劇作家なのだろう、と高を括っていたのだが、さてさてどうして。読み得た限りでいえば、どうしてこれらが舞台に掛けられないのだろう、と小首を傾げること頻りなぐらい、粋でいなせな、生命力に満ちあふれた作品なのだ。江戸っ子気質あふれる劇曲を書いた人、ともいえるだろう。思うに池田大伍、埋もれるを潔しとしなかった劇作家である。このあたりを梃子にして、池田大伍復権の足掛かりとできそうだ。
 現時点に於いて池田作品の最後の上演は新橋演舞場にて、2012年5月の「五月花形歌舞伎」での「西郷と豚姫」以来途絶えている様子(調査漏れの可能性は勿論、否定できない。識者よりのご報告を待つ)。たとい一部の作品だけであったとしても、然るべき時代に陽の目を見て上演されることは幸福なことである。
 同時代の戯曲作家たちの作物のなかにあって、池田作品がどのような地歩を占め、また群雄割拠する時代にあってかれの作品がどれだけ大衆にウケて、同業者たちから評価されていたか、そういった作家としての池田大伍をもっと知りたくなったのである。
 荷風が作者と一緒に観劇した「名月八幡祭」は幸い、前述の選集に収録されていたので慎重にコピーしてきた。週末、無聊を慰めるのも兼ねて読もうと思い、別に『名作歌舞伎全集』第20巻と第25巻を借りて来た。こちらには「西郷と豚姫」と「男達ばやり」を、利倉幸一の解説附きで収める。
 「名月八幡祭」と『名作歌舞伎全集』の収録作(綺堂作品が4作も入っているの!)を、太宰も荷風も脇に押しやってしばらく読み耽って楽しい時間を過ごすことを糧に、いまはもう休むとします(ここ数日、就寝が明け方なんだ)。◆

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第2799日目 〈池田大伍と永井荷風;荷風が経験した、数少ない濃厚な人間関係。〉 [日々の思い・独り言]

 ぼんやりと秋庭太郎『永井荷風傳』を読んでいて昭和17年の項に入った途端、むくり、と起きあがってその名を思わず確かめ、天井をしばし睨んだことである。そうして『断腸亭日乗』にあたり、ふむ、と頷いた次第。
 池田大伍、本名池田銀次郎というがその名である。劇作家として作品を残し、また『元曲五種』てふ著作が現在でも東洋文庫で購読可能。明治18/1885年9月6日〜昭和17/1942年1月8日、享年57。死因は急性肺炎であったという。
 『断腸亭日乗』昭和17年1月9日条;卓上の新聞を見るに池田大伍君昨日病歿の記事あり。行年五十八と云。余大伍君とは文芸の趣味傾向を同じくせしを以て交最深かりしなり。今突然そのなきを知る。悲しみに堪えざるなり。告別式明後日
 その日の欄外には朱筆で「池田大伍歿」と。
 同年1月11日条;大伍君葬式に行きたしと思ひしが風邪行くこと能はず。
 ……そうか、荷風と池田大伍は交誼を結ぶ仲であったのか。文芸の趣味傾向とは、専ら演劇を中心にいうているのかもしれない。それにしても成る程、自分のなかで両者の結びつきはすこぶる意外であった。もっとも、全集も秋葉の著書も入手して書架に備えるようになったのは今月のことなのだから、仕方ない。
 試みに新版荷風全集第30巻を持ってきて「池田大伍」を検めると、古くは大正8年8月1日に既にその名があり、没した年までコンスタントに登場している。殊大正末期から昭和5年あたりまでは殆どレギュラー・メンバー。『断腸亭日乗』は大正6年9月16日起筆のため、それ以前と思われる2人の出会いについては残念ながら不詳としか言い様がない。ただ年譜や荷風の文章、池田大伍の仕事から推し量るに、二代目市川左團次が仲立ちの役を果たしていたであろうことは、めずらしくWikipediaが正確な情報を提供している。
 わたくしが池田大伍の名を初めて知ったのは、いまを遡ること四半世紀ばかりむかし。三田で国文学を学ぶ傍ら民俗学に秋波を送っていた時分である。要するに、恩師の縁で折口信夫の学統に引っ掛かり、そこから池田彌三郎の著作を神保町の古書店の棚や古書目録で目につく端から買い集めていた頃に池田大伍の名前を知り、そのまま『元曲五種』を購い読むに至ったのだ。
 池田大伍は池田彌三郎の叔父にあたる。池田の実家は銀座で長く営業した天麩羅屋「天金」、三代目池田金太郎は彌三郎の父、大伍の年子の兄だ。池田彌三郎『銀座十二章』(旺文社文庫/朝日文庫)の「天金物語」に拠れば、初代関口金太郎によって屋台から始まった天金はその後現在の和光がある場所に店を構え、明治23年、初代逝去に伴い養子池田鉸三郎が二代目として店を継ぎ、その大伍の兄・彌三郎の父である三代目池田金太郎、彌三郎の兄四代目池田延太郎を経て昭和45/1970年、五代目の時代にその歴史に幕を降ろした。かつての常連客に徳川慶喜がおり、好んでかき揚げを食したという(徳川家に天ぷらって或る意味、鬼門に思うのだけれど)。また、森茉莉も両親(つまり、鴎外夫妻!)に連れられて通った様子。岡本綺堂の随筆にも「天金」の名が出る。
 大伍は劇作家であった。その仕事の全貌はなかなか見えづらく、国立国会図書館に通って著作一覧を作ろうとしたが、諸事あり音をあげて放棄していまに至る。恩師に教えられて『名作歌舞伎全集』第25巻を図書館から借りて『西郷と豚姫』を読んだが、正直なところ、あまり印象に残るようなものではなかった。年末休みに入る前に出掛けて、借り出してみようと思うのだが、さて読後感に変化が生じるか、われながら期待である。
 さて、『断腸亭日乗』に池田大伍が初登場するのは大正8年8月1日、帝国劇場にて尾上菊五郎の『怪談牡丹灯籠』鑑賞の帰途、雨降りのため傘を連ねて帰った、という短かな一文に於いて。この日の鑑賞は、当時荷風がかかわっていた玄文社発行の雑誌『新演藝』観劇合評会のためである。年譜に基づけばこれに先立つ同年6月6日、日本橋若松家にて芝居合評会があり、荷風は大伍と顔を合わせているはずだが、『断腸亭日乗』にはなんの記録もない。さして記すべき印象を持たなかったのかもね。
 荷風が大伍の芝居を鑑賞した最初の記述は、大正10年10月20日条に見られる。曰く、「帝国劇場に往き池田大伍君の傑作名月八幡祭を看る」と。実はこの日も雨だった。まだ途中の読書ゆえ、この後大伍作芝居を荷風がどれだけ鑑賞したかわからないけれど、荷風が友人の作品を評した文章などあれば読んでみたいものである。
 消えては浮かびあがる池田大伍と、荷風はほぼ四半世紀の長きに及ぶ期間、交友を持つに至った。はっきりいって、荷風の性格を考えればこれは驚愕するにじゅうぶん値する事実である。途中で断絶期間があってその後また交友が復活した、というならまだしも(荷風の性格上これも考え難いけれど)、全集の索引を閲してみてもそのような断絶は認められない。平井呈一を信頼して日記の副本の作成を依頼したり、死後の著作管理の一切を任せる、というたのとは別のレヴェルで、荷風が生涯で経験した、数少ない濃厚な人間関係の1つといえるのではないか。それとも若き日に結ばれた交誼は齢重ねた後のそれとは別次元のもの、か。
 考えてみれば、折口信夫と永井荷風は同時代の人であった(荷風が8歳年長)。折口の著作、弟子たちの著作に登場する固有名詞が『断腸亭日乗』に現れたって、ちっともふしぎでない。ただ、池田大伍の名前を秋葉の著書で見掛け、荷風全集を引っ繰り返すまでその事実にまるで気が付かなかったのだ。天金というキーワードで以て更に芋蔓式に繫がっていったとなると、もはや本稿をどう結んでよいか、わからぬ。為、ここで擱筆とする。
 なお、池田彌三郎が叔父・池田大伍に触れた文章は『わが戦後』(牧羊社 昭和52年10月)と『わが町 銀座』(サンケイ出版 昭和53年9月)他に見られる。◆

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第2798日目 〈猪場毅、荷風に絶交されしこと。〉 [日々の思い・独り言]

 来週に刊行が迫った『荷風を盗んだ男 「猪場毅」という波紋』(善渡爾宗衛・杉山淳編 幻戯書房)の予約を先達て済ませたのですが、「通常注文で入ってくる出版社ではないので、もしかすると来年頭の入荷になるかもしれません。それでも宜しいですか?」といわれてしまった。もとより承知、首肯して注文伝票に諸々記入してきました。むかし神保町の某書店でも同じこといわれたなぁ、と、帰途立ち寄ったスタバでぼんやり想いだしたことであります。
 本書は版元の案内文に拠ると、佐藤春夫・永井荷風の当該著作から「来訪者」の木場貞のモデルとなった猪場の肖像を浮かびあがらせる資料集。編者による「解説」が本書刊行の経緯など語ってくれるだろうが、目次を一瞥して個人的に瞠目したのは、生田耕作先生校訂の「四畳半襖の下張」を収めた点だ。
 いま資料が手許にないので正確ではないが、これはたしか、生田先生が晩年、京都の小出版社から刊行した豆本叢書の特別版としてあった1冊でなかったか。存在を知って以来八方手を尽くして捜したが、そのうち日常の些事に紛れていつの間にやら捜索を止めてしまった思い出を伴うこの『四畳半襖の下張』に、このような形であうことになるとは、いやぁまさか夢にも思わなんだ。
 『四畳半襖の下張』−『来訪者』を巡る人間関係はこれまで専ら、(比較的資料にあたりやすかった)平井呈一サイドから考えられること多く、ではもう1人の<来訪者>木場貞こと猪場毅とはどのような人物だったか、てふ疑問へそう簡単に応えてくれる資料は揃っていなかった。わたくしが知り得た限り、猪場毅に触れて色眼鏡で見ることなく書かれたのは、私家版や同人誌等を除けば秋庭太郎の4巻より成る浩瀚な荷風研究書を嚆矢とし、その後は松本哉『永井荷風の東京空間』(河出書房新社 1992・12)がある程度でそのあとに続くものは、殆ど皆無であるまいか。
 猪場毅は俳人富田木歩に弟子入りして「芥子」という号をもらい、また前掲の『荷風を盗んだ男』はその木歩が著した随想「芥子君のこと」をプロローグに収める。俳人として相当に腕を鳴らしたと聞く猪場の新たな一面を知ることができそうだ。
 現在、その猪場の作品集が分厚な1冊にまとまっている。昨年12月に東都我刊我書房から出版された『真間 伊庭心猿作品集』がそれ。伊庭心猿は猪場毅の号の一つ、仏語「意馬心猿」に因んでいる。
 さてこの1冊、なにぶん高価であるゆえ未入手、内容の点検も当然できていないのだけれど、ここには伊庭の俳句や随筆等がどれだけ収められているのだろう。松本が報告しているハガキ大サイズの小冊子『絵入 墨東今昔』も全編が収められていることは、期待して良いのだろう。なにしろ総ページ数、384ページである。逆に収録されていなかったら、中指立てて汚い四文字言葉を叫びたいところだ。
 平井呈一がそうであったように、猪場についても荷風は日記『断腸亭日乗』に記し、出会いから蜜月、そうして破局に至るまでをつぶさに追うことが可能である。猪場毅については『真間』と『荷風を盗んだ男』を読んだあとつらつら考えてみることにするが、絶縁の決定打になったのは、『下谷叢話』の版権問題であったという。
 『下谷叢話』は私淑する森鴎外の史伝に触発されて、外祖父である儒者、鷲津毅堂とその縁に列なる大沼枕山の事績を調べあげて書かれた好著だ。これは幾度かの、丹念に追うと時にこんぐらかるような改訂を経て、いまでは岩波文庫で手軽に読めるようになった。改訂と出版の歴史は成瀬哲生の解説に詳しいが、猪場毅はいったいどこで、どのように絡んでくるか。
 猪場毅は東京日本橋浜町の産、幼くして母に死に別れてからは、「孤独の父と共に隅田川を遡り居所を転々とし、……母方の親戚をたより現在の紀伊に移り申し候」という。これは『断腸亭日乗』に書き写された猪場毅からの手紙の一節である。その後、上京して荷風に親近して浅草遊びなどに付き合い、やがて冨山房に入社。ここでお待たせ、『下谷叢話』の登場だ。
 『下谷叢話』は大正15/1926年3月、春陽堂から開版せられたのが世に出た最初である。その後披見し得た資料によって遺漏多く、改訂の必要を感じた荷風はさっそく手を入れ始めて昭和13/1938年11月、<冨山房百科文庫>の一として『改訂 下谷叢話』の刊行にこぎ着けた。
 その後、──昭和25/1950年8月刊中央公論社版『荷風全集』第13巻所収『下谷叢話』は、全集収録にあたり荷風が生前最後に補筆修訂したヴァージョンを底本に採用(その更なる底本は冨山房版と見てまず間違いないだろう)、昭和38/1963年11月刊の岩波書店版第一次全集第15巻では中央公論社版を底本とし、平成の世になって新たな編集方針の下刊行された最新の『荷風全集』は件の冨山房版を底本に採った。なお、岩波文庫が底本に仰いだのは、第一次全集即ち中央公論社版。荷風の補筆改修が入った最後の、謂わば著者の意思が最終的に反映された手沢本である。
 では、猪場毅に話を戻そう。
 最前、『下谷叢話』の版権問題が、荷風と猪場毅の絶縁の決定打となった旨申しあげた。事情は詳らかでないが、それは昭和15/1940年07月13日(土)の『断腸亭日乗』に記された、「冨山房書店不正の事」てふ一文に詳しい。要約すれば、こういうところである、──
 冨山房は社員の猪場を遣わして『下谷叢話』他一著を合本にして出版する事を提案、自分はこれを認めたが、猪場は他出版社の例に倣い特に出版契約書の類は作成しない、といった。昭和14年に出版された『下谷叢話』だが、冨山房は猪場解雇後に出版契約書を送り来たった。その条文に曰く、向こう15年間は同書の他社からの刊行並びに全集編入を認めない、と。
 荷風、これに激して書くは以下の通り──「冨山房は始より其版権を横領する目的を以て余の許に店員猪場を遣せしものなるや明なり。猪場はこの事を承知の上にてなせしものなれば其行為は詐欺なり。冨山房出版部と彼との間には利益分配の黙契ありしや亦疑を入るゝに及ばず」(第一次全集第23巻P50 昭和38/1963年3月)と。このあとは猪場への人身攻撃の体を為すが、谷崎潤一郎と佐藤春夫の許には既に出入りを禁じられている旨報告されている(いみじくも戦後、平井呈一が幸田露伴の許を訪ねたら途端に「帰れっ!」と罵倒、追い返されたという挿話が思い出されることである)。
 また、秋庭太郎『考證永井荷風』は「『下谷叢話』版権問題の故を以て、荷風は弁護士の意見を問ひ、その結果、荷風は猪場宛に絶交状を郵送した」(P537 岩波書店 昭和41/1966年9月)と書く。
 この件に関しては荷風の報告を見るだけなので、裏附けになる資料或いは逆に「否」を呈す資料を披見し得ないのが残念だが、これは後日の宿題としたい。それとも、『真間』と『荷風を盗んだ男』ではこのあたりの事情が説明されていたり、或いは猪場自身の筆で語られているのだろうか。嗚呼、前者については早急に入手の要ありとわかってはいる、わかってはいるのだが……っ!!
 「来訪者」や『断腸亭日乗』から浮かびあがる猪場毅は殆ど極悪人である。触れるモノ触るモノことごとくに悪感情を抱かせる、そういう星の下に生まれついたとしか言い様のない人物である。秋庭『永井荷風傳』(春陽堂書店 昭和51/1976年1月)が伝えるところでは、『樋口一葉全集』並びに『一葉に與へた手紙』編集に際して、和田芳恵が複雑な心境を綴った文章が紹介されている。編集者としての才覚を高く評価した上で和田の曰く、「世の中を猪場は甘くみたようである」(P444)と。
 が、家庭人としてはまた別の顔だった様子で、養嗣子清彦が秋庭太郎に宛てた書簡は言外にそれを窺わせる節が見て取れる。社会人としての顔と家庭人としての顔がまるで違う男なぞ掃いて捨てる程いることは、男性諸氏なら覚えもあるだろう。むろん、清彦氏も荷風との一件、文豪たちとの間に生じたトラブルについて仄聞するところは多々あったろう。とはいえ、毅に対して含むところはなかったはずだ。そうでなければ、「どうか事実のまゝの父の像をお書き下さい」(P446)なんて台詞は出るまい。
 猪場毅の著書は前述『絵入 墨東今昔』の他、『心猿句抄やかなぐさ』や『絵入 東京絵ごのみ』などがある由。
 その猪場は荷風に先立つこと2年前、昭和32/1957年2月25日に千葉県市川市真間の自宅にて逝去した。享年51。『断腸亭日乗』にその報はない。亡くなる直前まで書かれた日記と雖もその頃は既に天候と来客、食事のこと程度しか記していないため、荷風がかつて交を結んだ猪場の逝去を知っていてなお記録しなかったか、知らぬまま幽冥の人となったか、定かでない。資料にざっと目を通したに過ぎぬところもあるので、もうすこし調べてみる必要があろう。
 荷風生誕140年・没60年のメモリアル・イヤーに『真間』と『荷風を盗んだ男』の刊行さることで(とはいえ、『真間』はちょうど1年前の出版だが)、荷風の交友に於いて殆ど未開の地であった猪場毅の像がようやくわれらの前に立ち現れる。これによって今後、荷風研究がどのような方向を目指すのか、見守りたい。◆

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第2797日目 〈Twitterの義理「いいね!」、やめませんか?〉 [日々の思い・独り言]

 表題の通りですが、下記に補足を。補足という割には長いけれど。
 未フォローの人のツイートも、タイムラインには流れてくる。フォロワーがリツイート或いは「いいね!」するので、1日放置するとけっこうな量のツイートがTLを占めている。まぁ、どんだけ大量の人がTwitterを使用しているか、証明している事象といえましょう。
 では、本題。
 TLで見掛けたツイートになにかしらのリアクションをすると、遅かれ早かれその人から、こちらが投稿したものに対して「いいね!」が来る。嬉しいといえば嬉しい。
 が、それが最新の投稿或いは固定されたツイートに対しての「いいね!」なので、「ツイートへ反応してくれたお礼に、こちらの投稿のうちいちばん上にあるツイートに「いいね!」してくれた(だけ)のだな」と、淋しいとも侘しいとも、もしくは嘆きとも受け取れる溜め息を吐くのが常である。その投稿についての興味ゆえ「いいね!」したのではないのは、はっきりしているから。
 営業ならともかく、たいして気にも留めていないツイートへリアクションするのは、どうしてだ。 相手のタイムライン遡るのが面倒だから、目についたいちばん上の投稿に反応返しているだけでしょ? はたして胸を張って「否」といえる人が、どれだけいるか。
 要するに、あなたのそれって義理の「いいね!」だよね。
 その行動を促す衝動は、なにに起因するのか。せっかく「いいね!」してくれたのだから、あなたのツイートにもなにかしらの対応を示すのが誠意だと思ってます、と? それは違う。誠意でもなんでもない。ただの演出だ。
 さっぱりわけがわからない。わたくしは義理で「いいね!」したことがいちどもない。それともTwitter界隈で斯様な<義理>は、常識であったのか?
 フォローしている人からの「いいね!」、本当に読んでくれた未知の方からの「いいね!」、これは本心から嬉しい。やった、と意味もなく拳を握りしめて、ガッツ・ポーズしたくなる。後者の場合、それが契機でフォローしてくださる方が多数なので、なおさら嬉しい。でも、明らかにわかる義理の「いいね!」となれば、話は別だ。
 わたくしの「いいね!」基準は、こうだ。読書アカウントの場合は、自分も読んで気にかけた本、作家を取り挙げていれば、投稿内容を読んだ上で「いいね!」する。読書アカウント以外でも、殆ど基準は変わらない。関心ある内容、興味ある内容、大いに首肯できる内容、ちょっと心があたたかくなる内容、あまりに痛ましき出来事へ触れたツイート、リツイートすることでより多くの人の目に触れることを願うツイート、などなど。こうしたこと以外で「いいね!」したり、リツイートしたりしていたら、それは懸賞絡みの内容でありますな。
 フォロワーさんが10,000人を超えました! 今日中に10,000人超え目指したいのでご協力お願いします! ──こうした報告宣伝ツイートを見るたび、フォロワーの数を無尽蔵に増やしてなにを目指しているんだろう、と疑問に思う。
 どれだけフォロワー数が多くても、過半が幽霊ではねぇ。唯一有益であるのは、自分のツイートがよりたくさんの人の目に触れる、という点でのみでしょうな。呵々。
 ちょっとあなたの義理「いいね!」、その行為を考え直してみては?◆

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第2796日目 〈「やっぱり冬は明け方よ!」 同感です。〉 [日々の思い・独り言]

 まだ星は空にあって、凜と輝いている。吐く息は白い。手袋をわすれた手をコートのポケットにつっこみ、猫背ぎみで駅への道を急ぐ。──地下鉄の階段をのぼって地上に出ると、お天道様は東の空にすっかりのぼり、銀座の歩道は通勤姿の人でいっぱいだ。しかし、肌をさす空気のつめたさは、あいかわらず。目が覚め、意識も体もシャキッ、とする。そんな毎冬のルーティンの最中にてかならずというてよい程頭に思い浮かぶは、あの言葉以外になにがあろう、──
 「冬はやっぱり明け方に限るわよねっ!」
 咨これを知らぬものがあろうか、王朝時代きっての才媛、清少納言のこの言葉を?
 冬はつとめて。けだし卓見である。動乱の時代であろうと、泰平の時代であろうと、それは21世紀のいま、平成から令和に改元されたこんにちでも、変わるところはない。
 ところで、『枕草子』初段ではそのあと、どのように続くだろう。「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて」で一括りにしていると、それに続く清少納言の本懐はわすれてしまいがちだ。わたくしも全文を正しく覚えているわけではないけれど、思い出せるところを書いてみよう。ただいま東銀座なう、手許にテキストがないのでね。──インターネット? それに頼るは負けであります、と、なぜわからぬか。
 話がそれた。元へ戻そう。清少納言女史、冬を語りて曰く、「冬の早朝ってあわただしい。女御がしゃかりきになって炭を熾し、火鉢をあちらの部屋こちらの部屋へと運ぶの。その時間帯はとっても寒いから、この仕事はテキパキこなさないとならないわけ。でも日がのぼるにつれてあたたかくなってくると、火鉢の炭はくたっとしてしまい、わたしたちも早朝の無駄のない動きはどこへやら。やっぱりくたっとして、だらけてしまうの。なんか気に喰わない」と。
 清少納言はかわいらしい。文学史に名を留めた女流のなかで三本指に入るかわいらしさだ。かしこさといじらしさが同居し、才智にあふれ、人の縁にめぐまれてそれを大切にした女性である。すべて中宮定子のサロンなくしては花開き、認められなかったであろうことだ。もし清少納言が定子に使えることなかりせば、われらは『枕草子』という随筆文学の傑作に親しむことはできなかったに相違ない。
 早朝の、心身を鍛えて活発にさせる、あの峻厳な空気のつめたさは、もうすっかりゆるんだいま、午前09時03分。火鉢の炭の如く、後宮の女御たちの如く、くたっ、として、だらけてしまう、と清少納言がいうたのは、だいたいいまぐらいの時刻のことか。正直なところ、頭の回転は鈍り、本稿の筆の運びも停まりがちだ。くたっ、とだらけてしまうた結果である。この状態をさして清少納言は「気に喰わない」というか。となればわたくしも、「スミマセン」と殊勝に頭をさげて、その後はしばらく女史のご機嫌伺いに勤しむつもりだが──それも悪くない、ワネ。ぐふふ。◆

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第2795日目2/2 〈またしてもやってくれたね、SSブログ?〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄に一言、お詫び申しあげます。
 本日午前2時より公開の「第2795日目1/2 〈などてわたくしは単行本派となりしか。〉」の閲覧に、支障が生じております。
 改行がきちんとなされておらず、第3段落以後はすべて1つの段落にまとまってしまうという、忘れた頃にやって来るSSブログ(旧:So-netブログ)の珍事件。過去にも何度か同様のケースがあり、その都度運営元に質問のメールを投げているのだが、今日に至るまで唯の1度も返事はない。6年の間に唯の1度も、というのはどれだけSo-netが、いまはSONYが自社運営のブログを等閑視しているかの良き証拠といえましょう。
 「よくある質問」やウェブの検索結果のレイアウト崩れに対する対処方法は、試してみてもなんの解決にもならなかった。「新たに編集したときに、レイアウト崩れが生じるケースがあります」だって? そんな久しぶりに投稿するような人を想定したって、意味ないだろう。毎日更新している人をこそ対象にした回答を載せてほしいよ。SONYの衆楽は技術やハード面に原因があるのではない。ソフト即ち人とCS対応の無様さが原因だ。So-netのなかにいた者として、心底からそう思う。
 さて、というわけでどうあってもレイアウト崩れは解消しようがないので、この日のブログはこのまま放置。責任はブログ運営元にある。SONYの株、売却しようかな。
 この対応の杜撰ささえなければ、可もなく不可もないブログなので、ずっと使い続けたいのですけれどねぇ。◆

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第2795日目1/2 〈などてわたくしは単行本派となりしか。〉 [日々の思い・独り言]

 本屋さんでふとした拍子に目が留まり、手にした1冊が心へ響いたのをきっかけに、その人の他の本も読んでみる。いつしかその作家は自分のなかで重要な位置を占めるようになり、生涯付き合うも辞さぬぐらい鍾愛の存在となる。
 大概の場合、そのきっかけは文庫が演じる。それからは過去に出版された本、好きになってから出版された本を追いかけてゆく。学生だった人は社会人になる。社会人だった人は昇格昇給や転職を経験する。一時的であっても可処分所得が増えるにあたって、それまで文庫一辺倒だったのが単行本に手を出せるようになった。喜ばしいことである。
 あなたが新刊書店で好きな現役作家の本を買うことは即ち、その作家が「今後も作品を書き続けられますように」という祈りに等しい。出版社では、その作家の本を出すことで利益が発生する=初版部数のすべてを捌くことはできないまでも、確実に購入する層がいることが数字で可視化できる=次の本の出版を打診する、てふサイクルが生じる。これが円滑に、継続的に回るようになれば、まさしくだ。  好きになったら──否、毒を喰らわば皿まで、という言葉を体現するかの如く、その作家の初版本や署名本、限定本、版元違いなど生活事情と懐事情の許す範囲で、買い集める人が出てくる。コレクターの領域に達するかはともかく、偶然の出会いを運命と感じて、「わたくしのところにいらっしゃい。悪いようにはしませんよ」と胸のうちで呟きながら、慈しむような眼差しで本をレジへ運ぶ……が、きっとかれは気が付いていない。その目はまさしく猟奇の人のそれであり、口角の上がり具合は周囲の人を引かせる程で。  堀北真希曰く、好きな作品は文庫でも単行本でも持っていたい、と。よくわかる。涙が出る程、共感できる。その言葉に出会う、はるか以前から実行していた身には、あたかも百万の援軍を得たかのような福音であった。ドイルを読み耽った高校時代、乗換駅にある大型書店の洋書売り場でペーパーバックを買ったのも、とどのつまりは同じことである。おかげで英語の長文に対する免疫はできたし、辞書をこまめに引く癖もついた。小説の背景にあるヴィクトリア朝に興味を持って、図書館にこもったりもした。かというて英語の成績が極めて優れたものになったか、といえば、それは別の問題だ。難しいね、このあたりの関係は。  では、近代文学の場合はどうなるか。初版本を狙うが常道、されど蛇の道は蛇である。いちど足を踏み入れたら完治不能の古本病に罹るは必至。罹患しているわたくしがいうのだから、間違いない。読者諸兄よ、安心してこちら側へくるといい。さあ、遠慮はいらない。  まぁ、それは冗談として、初版本を購う程資力のない場合は、復刻本がオススメだ。復刻本には復刻本の良さがある。なんというても、当時の読者がどのようなフォーマットで、どのような閑職をてに感じながら、それを読んでいたか。それを想像する余地がじゅうぶんにある。  わたくしが初めて買った復刻本は、荷風『すみだ川』。函入りのはずがそれのない、いわゆる裸本であるが、当時はそれで満足だった。荷風作品のなかではお気に入りの作品の一つであったがゆえに。その後、室生犀星や田山花袋、佐藤紅緑や佐々木邦の復刻本を折に触れて買い集め、気が向いたときに読んでいる。  そうして昨年から朧ろ気に気が付いていたことを、ここで告白したい。復刻本や単行本で好きな作家の本を読むことの、最大級のメリットを。  かつて渡部昇一『続 知的生活の方法』(講談社現代新書 1979・4)を読んだときは、実感としてわかるところのすくなかった点だが──質の良い本を買え、という項でいみじくもこういうのだ。これから先、どれだけの本が読めるかと考えた場合「安い本をたくさん買うよりも、少し高くても活字の大きい本とか、装丁の趣味のよい本とか、挿絵のよい本とかを買ったほうがよいと考えるようになる」(P51)と。続けて、渡部はいう。曰く、「年を取るととくに字の細かいのは読むのが辛い」と……そうなんだよ! いまにしてこれを実感できるようになったのだ。ちなみに渡部が本書を書いたのは、いまのわたくしと同じ年齢である様子。  そう、けっきょくは視力なのだ。メガネの度数がだんだん合わなくなってきているのに加えて、或いはパソコン仕事がウェイトを占めているので、休憩を取ってもモニターとにらめっこすることに変わりはない事情がそれに拍車を掛ける。  わたくしが単行本のみならず、初版本や復刻本、全集にちかごろ力を注ぎ始めたのは、むろん可処分所得の幾許かをそちらの購入に避けるようになったことと、活字の大きさと版面の余裕に読みやすさを感じたからだ。最近は文庫は通勤用に携帯するケースがしばしばで、家にいるときはなるべく読みやすい単行本等で読書に励んでいる(それでもハズキルーペは手放せないときあり)。  復刻本と全集、次は太宰治と夏目漱石、幸田露伴、泉鏡花を迎え入れたいものであります。◆

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第2794日目 〈焼けぼっくいに火がついた;三島由紀夫を猟書するであろう来年。〉 [日々の思い・独り言]

 周期的に読みたくなる作家はどうやら誰にでもあるようで、1年ぶりに再会した元同僚は煙草の煙を宙に見送りながら、自分はコリン・デクスターと鮎川哲也っすね、といった。ロジックを尊ぶかれらしい発言である。
 人間の細胞は7年周期で入れ替わる。国書刊行会から出ていた『ウィアード・テールズ』全5巻のうち第何巻であったか、E・ホフマン・プライスが往時を回想したエッセイのなかと思う。巡り巡って再びそこへ立ち帰る、という意味ならば、成る程こちらも納得のゆくところ大いにある。
 ちかごろ無性に読みたくて溜まらなくなっているのは、おなじみ永井荷風ともう1人、三島由紀夫だ。高校時代に狂的なまでに熱中して、その後クラシック音楽のLP購入の資とされた、三島由紀夫。わずか数日ながら同じ世に生きたかれの作品によって、わたくしは<文学>の森に足を踏み入れた。そのまま勝手気儘にこの森を歩いて数十年になろうとしている。
 新潮文庫と中公文庫を中心とした三島作品の他、自決に触発されて数々出版された三島特集雑誌や単行本・新書など、学生時代に買い集めた三島本はむろん、これという価値を持たぬありふれたものであったり、古本屋の棚の隅っこで埃をかぶっているような代物ばかりである。つまり、学生の自由になるお金で買い集められるぐらい安価なものばかり拾い集めてきたわけ。それが為に数だけはあったのだ。
 当時蔵していたものはただ4冊の例外を除いて、綺麗さっぱり売り払った。古本屋から帰ったあと、空っぽになった本棚をみてどんな思いが去来したか、もう覚えていない。
 掃除の際、廊下に積んであったダンボール箱をひょい、と開けたら、黄帯の岩波文庫や秋成本と一緒に、その例外たる4冊が出てきた。新潮文庫の『潮騒』と『永すぎた春』と『女神』、『グラフィカ 三島由紀夫』がそれである。『グラフィカ 三島由紀夫』は没後20年企画<甦る三島由紀夫>の一環として、新潮社が新たに刊行した3点のうちの1つ(もう2点は、『三島由紀夫戯曲全集』と村松剛『三島由紀夫の世界』)。
 この数日、ぽつりぽつり、三島の小説を読んでいて、人工的美の世界とその内側へ潜む昏い影に心が再び囚われてゆくのに抗えない。懐かしさ、とか、そうした感傷的な気持ちは正直なところ、あまり感じていない。なぜなのかは、わからない。
 まぁ、そうした流れあって、他の三島の作品を読みたいな、と、思い立ったらおとなしくしていられぬいま、今宵。別件で開いていたGoogleで「三島由紀夫 古書」で検索してみる。「日本の古本屋」と「スーパー源氏」を中心に数千点の結果が表示された。雑誌の特集や怪しげなものまで含んでの数字にひるみそうだが、なに、大したことはない。雑魚は視界に入っても意識を向けることなく、無心に三島自身の著作だけを猟犬の如き目で追ってゆく。追って追って、追い続けて、──
 疲労。
 高校時代に読んでいた文庫は軒並み買い漁るとしても、その他についてはさしたる獲物は見附けられなかった。好きな作品の初版本は状態如何で検討するとして、全集はもう少し選択肢があると期待していたが、残念、駄目だった。
 いちど着火して再び燃えあがったこの炎、此度もそう易々とは鎮まりそうにない。
 来年は荷風と秋江の他、三島由紀夫の本を蒐集する1年となりそうです。◆

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第2793日目 〈「本日、休載」という台詞は、そろそろ聞き飽きているだろうか?〉 [日々の思い・独り言]

 これまで何度となく、事情はさておき「本日のブログはお休みです」てふ旨の文章を残してきました。「“明日”ならまだしも、“本日”と謳っておいて中身が通常と同じようにあるのは、なかなか詐欺師じみたことを行っているな」と反省頻りな年末であります。むろん、読者諸兄は「反省頻り」という言葉も信じては、いけない。
 新聞や雑誌で時折見掛ける休載のお断りは大概、1行で済み、文字数も精々が20字ぐらいか。が、本ブログに於いて「お休みしまーす!」というときは9割近い確率で、分量も内容もいつもと同じなのはたぶん、当初こそ「お休みのお知らせ」なつもりでいたのにスイッチが入ってしまい、由なしこと様々あれこれ書き綴っていたら普段と変わらぬものを書いていた、冒頭のお休み宣言はそのまま残すのは一種のジョークと思うてほしい、そんな気持ちの表れでありましょうか。
 ──結果として今日もまた、詐欺めいた台詞で始まり、くだらぬことを書き留める。──
 さて、年末である。回顧するにも抱負を述べるにも、ぴったりな時期の到来である。おせち料理の申込みをしているご家庭には、業者から配送予定のハガキが届き始める時分である。
 今宵行うは回顧に非ず、抱負を述ぶ。鬼も嗤うを控えるだろう。嗤いたくて口許がゆるむを隠せぬ鬼は、どうぞ引っこんでおれ。
 来年は年明け早々、青色申告会に参上して確定申告の準備を進めなければならない。次回が5回目になるのかな、事務所訪問は。建てた年は通常年よりも様々な方面で収支が発生するから、仕方ないのですよ。とはいえ、お陰様で殆どの勘定科目の数字はほぼ確定しており、検めるべきは保険料その他幾つかの科目ぐらいかしらん。今年のうちに作業が概ね終わるであろうということは、来年の確定申告時期に大騒ぎする必要はなくなる、ということに他ならない。いまの大変さが以後の楽を生むのだ。
 現実的なところで目下最大の課題は上の確定申告、そうして改葬だけれど、そろそろ既存の人間関係を整理する必要も切に感じている。これね、或る年代以上の人、或る年数社会人をやっている人は、ぜったいにやった方がいいです。経験から斯く断言させていただく。
 実はわたくし、来年は荷風の「来訪者」みたいな小説を書こうと思うているが、その材料はこの数年で経験した裏切りや不信を基にしているので、もしかすると読まれた方みなみな気分を害する類の作品になるやもしれぬ。が、わたくしは書かなくてはならない。これは告発なのだ。
 そうそう、聖書各書物の〈前夜〉も進めないとイカンですね。10月に「列王記」の第一稿を書いてからというもの、まるで手を着けていない。ここで一つの区切りになっていますから、気が抜けたかな。粗雑であっても該当書物の〈前夜〉はすべて、第一稿をあげておかないと。
 また、来年は本ブログが第3000日を迎える年であります。よんどころない事情が出来しない限り、毎日更新を途切れさせることなく続けて、その日を迎えたいものであります。その日までに「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」はお披露目できるかなぁ……。
 読書については、決めてあることはただ一つ。おなじみ、現時点で未読な太宰治とドストエフスキーの各巻を読了することだけ。他には、ない。合間合間で気が向いたように、都度読むべき或いは読みたい本を読んでゆくのも、またおなじみなお話。
 来年のこと、ねぇ。大上段に振りかぶってはみたものの、あまり思いつくことがないですね。侘しいものです。ただ、大過なく、家族が事件や事故に巻きこまれることなく、火事や盗難に遭うことなく、事件や事故に遭うことなく、病気という病気に罹ることなく、ぶじに、健やかに、過ごすことができれば、それだけでじゅうぶんなのであります。◆

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第2792日目 〈福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩 ミステリの愉しみ』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 創元推理文庫から『深夜の散歩 ミステリの愉しみ』が復刊される、と知ったのは、はて、Twitterが先であったか、ウェブの「今月出る文庫、来月出る文庫」が先であったか、覚えていないけれど、とまれその情報に接したとき、「いやっほー!」と心のなかで快哉を叫んだのだけは、覚えている。
 それは福永武彦、中村真一郎、丸谷才一、という自他共に認めるミステリ中毒者が、20世紀中葉の推理小説を俎上に上して、愛情たっぷりに語り倒した愛好家必読の1冊。今日はその感想文ではなく短な書誌めいた一文を書き綴ってゆくものとする。退屈でしょうが、お付き合いいただけると嬉しいです。
 『深夜の散歩』の基になったのは、雑誌『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(以後『EQMM』と略す。なお本誌は現在は隔月間となった『ミステリ・マガジン』の前進である)に3氏が連載したエッセイ。福永武彦「深夜の散歩」、中村真一郎「バック・シート」、丸谷才一「マイ・スィン」、以上3部から成る。
 書題にもなった「深夜の散歩」は福永が担当、『EQMM』1958年7月号から1960年2月号まで連載。巻頭言の「Quo vadis?」、アガサ・クリスティ『ゼロ時間へ』を俎に乗せた「ソルトクリークの方へ」にはじまり、アンドリュウ・ガーヴ『ギャラウェイ事件』を取り挙げた「ウェールズ地方の古い廃坑の方へ」で終わる。全18編。
 中村が担当した「バック・シート」は、1960年5月号から1961年7月号まで『EQMM』に連載された。エド・マクベインの人気シリーズ<87分署>の魅力を語った「アイソラの街で」にはじまって、中村のスパイ小説観を綴った「スパイ小説」まで全15編より成る。
 最後に丸谷才一。連載は1961年10月号から1963年6月号まで、15編が『EQMM』誌上に載った。クリスティ『クリスマス・プディングの冒険』を振り出しにした「クリスマス・ストーリーについて」にはじまり、推理小説と呼ぶよりも探偵小説と呼び続けたいと語る「新語ぎらい」まで。
 (丸谷のパートで個人的に好きなのは、創元推理文庫から完訳版が出て間もないウィルキー・コリンズ『月長石』を推奨する「長い長い物語」。およそ『月長石』については歴史的意義やその長ったらしさばかりが強調されて、冷静に、ミステリ・ファンの側から陳述された文章を、寡聞にして知らないからでもあろう)
 上記をまとめた単行本が昭和39/1964年に早川書房から、ハヤカワ・ライブラリの1冊として刊行。その際のタイトルは、『深夜の散歩 ミステリの楽しみ』であった。このあと、「三人の著者のミステリに関するエッセイを追加」して講談社から上梓されたのが、『決定版 深夜の散歩 ミステリの愉しみ』。昭和53/1978年に刊行されたこの決定版は、3年後に講談社文庫に編入された。
 ここで整理を。ハヤカワ文庫版『深夜の散歩 ミステリの愉しみ』(1997・11)は、1964年刊のオリジナル版を再現したヴァージョン(解説;瀬戸川猛資)。一方、今回創元推理文庫版が底本に採用したのは、講談社から刊行された決定版である。
 残念ながらわたくしはまだ、講談社刊決定版を所持できていないので追加されたエッセイが、創元推理文庫に収められる文章のどれなのか、確定できない。ついでにいえば、創元推理文庫の帯には「文庫初収録の文章を含む」とある。それがどの文章なのか、特定もできないでいる。そういう意味では本稿、ちょっと時期尚早かもしれないが、その点はどうぞご寛恕を。この点に関しては、講談社の決定版を入手次第、続稿を執筆、ここにお披露目することとしたい。
 『EQMM』連載後にまとめられた各氏の文章は、ハヤカワ文庫版と創元推理文庫版との間に本文の異動は認められない。みな故人ゆえそれも当たり前といえばそれまでだが、底本が異なれば異動の有無或いは程度について確かめてみるのは当然であろう。
 最後に、ハヤカワ文庫版になくて創元推理文庫版にある文章だけ、以下に記してお茶を濁す。
 福永武彦;『EQMM』や『ミステリ・マガジン』、中央公論社『世界推理小説全集』並びに『世界推理小説名作選』に寄せた文章が6編。
 中村真一郎;『ミステリ・マガジン』や『世界推理小説名作選』、集英社『世界文学全集』に寄稿した文章が3編載る。
 丸谷才一;3氏のなかではいちばん多く、10編を集める。初出は『EQMM』の他新聞や『世界推理小説名作選』など。連載こそされたが単行本未収録であった「マイ・スィン」の何回分かを併収。「元版「深夜の散歩」あとがき」にあるように、幾つかの回は丸谷自身の判断で収録が見合わされた由。これは今回も踏襲された。◆

 追記
 このように楽しんで読むことのできるミステリの案内書は、じつはけっして多くない。小泉喜美子『ミステリーはわたしの香水』(文春文庫)や『メイン・ディッシュはミステリー』(新潮文庫)、青柳いづみこ『ショパンに飽きたら、ミステリー』(創元ライブラリ)、ちょっと変化球かもしれぬが『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー』全3巻(講談社)が、わたくしがこのジャンルに分け入って行くときに頼る、心強い案内書です。□

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第2791日目 〈近松秋江「青草」の朗読台本に、アブリッジのテクニックを学ぶ。〉 [日々の思い・独り言]

 まさかいまになって気が付くとは……という経験、ありませんか? 何年も接していたにもかかわらず、疑問も調査もすることなく受動的に過ごし、最近ふとした拍子に調べてみたら、これまでの思いこみが瞬時に瓦解していった、という経験は?
 わたくしはあります。正確にいえば何度となくそうしたことはありましたが、今回程「なんてことだ……」と仰け反ったことは、ありませんでした。
 それはこういうことなのです。何年も前ですが、文学作品の朗読を寝るときに聴いている、と書きました。その折話題にしたのは、泉鏡花「怪談 女の輪」及び永井荷風「すみだ川」でした。これはみな、iTunesからダウンロードしたオーディオブック。他にやはりiTunesからDLしたPodcastで、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」と萩原朔太郎「猫町」が、おなじように寝るときに聴くこと多い朗読作品でありました。
 実はもう1作、iPod touchに入っている朗読作品がありまして、それは近松秋江「青草」であります。朗読は羽佐間道夫。力の抜けたような、寂寥さえ漂わせる声がなんとも秋江綴る情痴の世界にぴったりで、是非にもこの人の声で「黒髪」三部作、「別れたる妻に送る手紙」と続編「疑惑」も聴いてみたいなぁ、と思わしむるぐらいに相性の良さを感じさせるのであります。
 それに居心地の良さばかり感じていたせいではなく、勿論わたくしの怠惰がいちばん大きく作用しているわけですが、さいきん岩波文庫の秋江を掘り出したのを契機に、朗読を聴きながら原作(この場合、原作というが本道なのか?)小説を読もうと思い立った。前日に「すみだ川」で試したところ、なんとも心地よい経験だったものだから、今日もその至福の時間を求めんや、と。
 そうして「青草」を開いて、耳を傾けた──ところ、のっけから目を疑い耳を疑ったのでした。
 26ページの短編、朗読時間は46分。冷静に分析するまでもなくちょっと考えてみれば、この時間でその分量を無削除版で収めるなんてこと、不可能に決まっているのです。羽佐間道夫の読むペースを加味すれば、尚更正解へ近附くのは容易だったでしょう。
 冒頭の1行に続くは第2段落でなく、第3段落。しかもその後も段落の途中で離れた箇所に飛ぶわ、接続をなだらかにするため接続詞等が補われるわ、と放送時間内に収めるアブリッジのテクニックを望むと望まざると勉強させられた、そんな思いでありました。
 複雑な気分ではありますが、元はラジオ日本の番組「聴く図書室」。その作業も致し方ないよね、と頷ける部分もあるけれど、やはり無削除版を聴きたい。
 ──原作のどの部分を省き、また表現や言葉が補われて、番組用朗読台本が作成されたか。いずれ本ブログにてお披露目させていただきます。けっして件の朗読番組や朗読者を貶める意はなく、純粋にテキスト生成の推移を知りたい、自分自身の手で台本作成を追体験してみたい、という動機からであります。こうした動機や実作業が発展、枝分かれした処の1つに、偽筆偽作というものがあるのかしらん、と、そんな考えがいま、ふと脳裏を過ぎったりして……。
 この作業のため、八木書店刊『近松秋江全集』全13巻を買いこみました。というのは冗談ですが、図書館で「青草」所収の第1巻と書誌の載る第13巻を借りてきたのは、事実であります(でもどうしたわけか、月報がない。別に製本されている?)。来週からはいっさいの予定が手帳には記入されておりませんので(淋しい)、この後ろめたくも愉悦迸る作業に勤しめるときの訪れを、わたくしは楽しみにしているのであります。◆

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第2790日目 〈みくら徒然草 いろんなこと。〉 [日々の思い・独り言]

○岩波文庫の発掘や荷風全集の購入、秋江著作集の読み返し、などなど種々の要因あったがゆえと思われますが、今朝方ふと、近代日本愛欲小説史の構想を得て昼間、手帳におおよそのプランを走り書きした。
 既にどこかで誰かが着手、上梓もされているだろうことは承知だ。とはいえ、こちらにもそれなりに塗れた過去もあるので、そんな経験を足掛かりに、好きで読み散らしてきたこの種の小説を、自分なりに体系づけてみようかな、と思うたのであります。
 問題はどこで境界線を引くか。これが難しい。まぁ、ゆるりゆるり、と考えてゆきましょう。

○清水幾太郎『わが人生の断片』上下(文藝春秋 昭和50/1975年6−7月)を拾い読みしています。神保町の古書店の見切り棚で安く買いこみ、そのまま錦華小学校裏の公園でおにぎりをぱくつきながら、読書した思い出がよみがえってきます。
 この人の名前をどのような経緯で知ったか忘却したけれど、例によって渡部昇一の著書から発展したのではなかったか。脳裏に留まる名前であったため、見切り棚でそれを揃いで見附けるや迷いなく、嬉々としてレジの親父の前に持っていった覚えが、あります。
 本書以外にも1冊、架蔵するものがあったと思うが、記憶の誤りか処分したか、どちらかかもしれない。その本は『この歳月』(中央公論社)のはずなのだが……函入りだったよな、たしか。
 清水は社会学の泰斗にしてオーギュスト・コント研究の第一人者。本書のあちこちにも、それらにまつわる話題が散見されますが、今回10数年ぶりに読み返すに至るまでずっと覚えていたエピソードが、──
 ロシア語を学ぶ必要がある、と考えた清水はロシア語講習会に通ったがテキストの偏重に厭気がさして行くのを止してしまったこと。講習会参加が仇になって後日刑事に出頭を命じられたこと。ナウカ書店を介して『ソヴィエト小百科辞典』を購入して社会学に関する項目を、露独辞典と文法書を頼りに読んだが、けっきょくかの国に社会学というものは存在し得ない概念なのだ、と落胆したこと。──この昭和6年のエピソードが自分と印象に残っていたことを覚えている。
 通読したのは正直なところ、はじめの1回だけなので、発掘再会をきっかけに是非にも読み通してみたいと望むうちの1冊であります。

○今日このような変則的なスタイルを採ったのは、ちと明日の朝は早く出掛けねばならない用事が出来したからです。
 いやぁ、原稿料と印税が踏み倒されましてねぇ……。その仕事を紹介してもらった編集プロダクションに問い合わせたところ、なんでもクライアントがバックレたらしい。
 編プロの被害も大きかろうが、こちらの被害も大きい。それをアテにして年末年始の支払いやら私的用事の予定を立てていたところがあるゆえ、すっかり頭を抱えている次第。
 あすはその件で編集プロダクションを訪ね、その足で知り合いの弁護士に相談してくるつもりです。

○──という次第で読者諸兄よ、今日はここまで! おやすみなさい。◆

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第2789日目 〈ようやく<岩波文庫の100冊>お披露目のメド、立つ。〉 [日々の思い・独り言]

 暇な時間を使って気がついた端から、例の<岩波文庫の100冊>のリストを更新しています。
 おかげさまでリストの書目は順調に増えてゆき、いまは200と3冊に膨れあがりました。まだ記憶の底から浮かびあがってすぐに消えてゆく書目が多く、それらをぶじにリストへ加えることができたとしても、いずれにせよ100冊まで絞りこむ作業がたいへんになるのは同じこと。
 それにしても、部屋のあちこちから岩波文庫の出てくること、出てくること。どうしてこんなにあるのか、正直なところ、小首を傾げてしまいます。むろん、重複するものもあり、なんだってこうまで同じものを買いこんでいたのだろう、と不思議になります。
 勅撰和歌集、就中八代集はよいのです。ダブリで4セット、更に『古今集』と『後撰集』、『新古今集』が数冊ずつあるのは、然るべき理由が当時はあったからこその現象。『芭蕉紀行文集』と『おくのほそ道』もまぁ、良しとしましょう。たしかにこの2冊はこれまでの人生の一時期、幾度となく読み返して深入りし、あげく買い直した記憶があるものだから。
 が、わからぬのはどうして『梁塵秘抄』が3冊、『水鏡』が同じく3冊あるのか、ということであります。持っている理由がとんとわからぬ。読みたいと思うたときにどれだけ捜しても見附からず、仕方なく買うたらばそのあと出てきて、「あちゃあッ」と天を仰いだてふパターンを踏まぬ書目ゆえ、なにがどうしてこうなったのか、皆目不明である。そういえばデュマ・フィス『椿姫』と柴田宵曲『古句を観る』も、ダブリが生じた理由に思い当たる節がない本でありました。
 ──それはさておき、100冊のリスト作成は何ヶ月か前に作り始めたときよりも、ずっと順調です。不完全ながらいちどは叩き台になるものができあがっている、というのが、いちばん大きな理由かもしれない。なるほど、ヒルティ曰く、仕事は思い立ったときに始めるのが最前である、とは真のようでありますね。
 とはいえ、絞りこみの作業が、では楽になるかというと、そうでもない。そんなこと、あるわけがない。むしろ難事に変貌するというてよい。でも、……1冊リストに入れるとあとからあとから芋蔓式に、連鎖反応的に、次々思い出されてくるのだから仕方がありません。その連想に歯止めは効かない。むしろ、思いつくままに一旦はリストアップして然る後、うんうん唸りながら愉しい絞りこみ作業へ移ればよい。というか、そう思えなければやっていられない(部分もある)のであります。
 さきほど、ストック原稿や手帳に書きつけた下書き、アウトラインなど瞥見して今後の見通しを検めてみたところ、この<岩波文庫の100冊>はどうやら年内にはお披露目できそう。これまでの経緯を鑑みるに、架蔵する岩波文庫の新規発見を避ける意味では、もう部屋の掃除をするのは止めにしておいた方がよさそうです……。◆

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第2788日目 〈戦後になって書かれた荷風小説について。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろよく思うのだけれど、戦後になって書かれた永井荷風の小説に、ぱっ、としないものを感じるのはどうしてなのだろう。Twitterでもいちどだけ、そんなことを呟いたことがある。学校の図書室で荷風全集を借りだしていた時期、戦後になって発表された作物を収めた巻へ至ったとき、なにやらとまどいを覚えたのがそもそもの始まりだ。
 今日までの間に新しい荷風全集が刊行されて、こちらは公立図書館で、興味のある巻だけ借りて読んだ。並行して同時代の作家たちが荷風について語った文章を行き当たりばったりに読むようになり、そのなかでいちばん衝撃を受けたのはご多分に洩れず、石川淳の「敗荷落日」である。
 「最近の荷風はダメだ。読む価値もない。そも人品も怪しくなった」と真っ向から切って捨てたものは、それまで読んだことがなかった。その語調の激しさは読んでいるこちらが震えてしまう程だけれど、一方で意を強うしたところもある──戦後作品の粗悪ぶりを感じていたのは、よかった、わたくし独りではなかった、と。
 著作年譜を点検すると、荷風の小説は昭和12/1937年春発表の『濹東綺譚』を頂点にして、その後は偏奇館焼失の昭和20/1945年3月10日以後ゆっくりと、精彩を欠き、生命力が衰えてゆくようだ。蔵書みな灰燼に帰し、知的生産を支える屋台骨が崩れ去ると荷風散人はかつての詩魂失い、それは没するまで復すことがなかった様子である。
 それまでの荷風の小説は江戸の情緒をたっぷり身に纏うた、徳川時代から連綿と流れて継がれてきた人情話を、その優れたる、並外れたというてよいかもしれぬ文章力で以て芸術の域へまで高めたところに特徴の一があった。荷風の知的生産の屋台骨を崩落せしめたのは、なにも空襲により住処をなくし蔵書をなくしたばかりではない、戦災が荷風文学の温床となる江戸の情緒と近代の<粋>を根こそぎ奪っていったのだった。
 戦中に書かれた小説には、まだ『すみだ川』や『雨蕭々』に、或いは『濹東綺譚』に書かれた良き時代の空気が息づいていた。告発小説など種々のアプローチを許す「来訪者」にしても然り。が、戦後に書かれた小説は、どうだろう。
 疎開と移住を繰り返してようやく市川に落ち着くまでも、そのあとも、書かれる小説には最早かつての荷風文学の面影なく、残滓を嗅ぎ取ることはできてもその様は専ら風俗記録に等しい。
 翻って日記『断腸亭日乗』の昭和20年から昭和34/1959年4月29日(逝去前日)までを開くと、年を追うにつれて記述が非常に簡素になってゆき、ちょっと長めの記述があったとしても10日に1回程度の割合でしかなく、さすがに戦前戦中のような密度の濃さは期待できない。
 但し、それはあくまで『断腸亭日乗』に於いてである。かつて荷風が日記にあれこれ書き留めた仄聞観察の類は、たしかに戦後の日記からはだんだんと影を潜めていった(最後には天気と来客、出掛けた先の記録に留まった)。が、見方を変えて、むかしは日記に記録していた風俗や生活者の営みなどを、今度は小説に仕立てるようになった、と、そう考えれば戦後の小説の変容ぶりも(すくなくともわたくしは)納得なのである。
 戦後に書かれた小説の好い点は、敗戦後の焼跡の混乱や、公記録に残りようもない市井の事柄(出来事)、風俗習慣などがそこに留め置かれていることだ。まさしく風俗記録、社会記録である。
 たしかに作品の根底を流れるものに、戦前も戦後も変わりはないかもしれない。ただ、荷風の目にクローズアップされる部分が以前とは違うようになったのだ。とはいえ、書かれる小説のクオリティがさがる一方で終ぞ復活することのなかったことは、けっして否めぬ事実といえるだろう。
 斯様に申しあげてきて痛切に思う;わたくしはまだまだじっくりと、腰を据えて、まだまだ戦後作品と取り組む必要がある。まず自分のなかから、『四畳半襖の下張』−猪場毅/平井呈一−「来訪者」に至るラインを、こびり付いた固定視座をいったん棄てる必要があろう。それは難しいかもしれないが、いちどはそのフィルターを外さないと。
 幸いと第一次荷風全集全29巻を、第28巻までは初刷ながら比較的良好な状態でこのたび入手する機会に恵まれた(月報揃い)。次は1990年代に刊行されて21世紀になって第二刷が出、その際補遺2が付された新版全集を狙うが、こちらは初刷と第二刷、両方を購い求めることになりそう。月報の内容が異なるのだ。けっして荷風研究者ではないのに、なんだろう、この、憑依されたかのような行動は。
 しかしながら、最低必要なテキストは手許に届いた。新版全集の話はともかく、これからの冬の夜長は辞書を引き引き怪奇小説を読むのではなく、ハズキルーペを掛けて荷風全集を読み耽ろう。そうすれば自分のなかで荷風にまつわる別の件で課題としていることについて、気附けるところもあるだろう。◆

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第2787日目 〈途中報告;<岩波文庫の100冊>の進捗状況について〉 [日々の思い・独り言]

 <岩波文庫の100冊>を今年中にお披露目しよう、とゆで卵を作っているときに決意して、思いつくままにリストを作り始めたらいつの間にやら、どうしてそうなったかわからぬうちに、部屋のなかで所在が確認できる岩波文庫の総ざらいへ替わっていた。
 HDDに保存してある写真に、岩波文庫が映っているものは無いか、片っ端から確認してゆく。部屋のあちこちを睨視して、ここには岩波文庫が何冊か挿してあったはず、と記憶を頼りにサルヴェージする。目視できる場所に置かれた文庫を一旦スマホで撮影したり、或いは机に積みあげてひたすらリストへ入力。
 できあがったリストは、それでも架蔵するすべての岩波文庫ではゆめあり得ず、最後の保存をした時点で相当数の漏れを確認できる、いわば暫定的なリスト(『大鏡』や『栄花物語』が抜けているゾッ!)。現時点でリストアップされた文庫は、198冊。殆ど所蔵リストを兼ねているせいで、同じ書題もしくは作品でも複数タイトルを所持する場合は両方を記録した。
 一例を挙げれば、『古今和歌集』。現在まで長く流通する佐伯梅友校訂、二条家相伝本即ち貞応二年本を底本としたものの他、かつて尾上八郎校訂の嘉禄本が活字になって出回っていた。両方を架蔵してどちらにも親しんできたこともあり、リストには貞応本と嘉禄本、それぞれを底本とした『古今和歌集』を入れた。
 また、若山牧水の歌集も喜志子夫人が編集したものと伊藤一彦が新たに編集したものが岩波文庫にはあるけれど、歌人への偏愛あり殊前者は数冊読み潰した愛着ある1冊であるゆえ、現役か否かを問わずその両方をリストに加えている。
 とはいえリストを作る上で、ふと立ち止まって「ふむぅ」と悩んでしまうことも、度々。旧版と新版がある作品は、どちらを選ぶか、と世人には「なんだ、そんなことか」と呵々大笑されてしまうような悩みなのだが……。『古今和歌集』や牧水歌集は、同じ悩みを纏うはずがなんの躊躇いなく両方を選べたのになぁ。なんだか可笑しいね。
 新版になんの愛着も想うこともなく切り捨てられるようであればともかく、両方に馴染んだ場合は「さて……」と悩み始めてしばらく考えこむ羽目に(上述の2書がどれだけ例外であったか知るべし)。──解決はまだしていない。為、ここで書くこともこれ以上には、無い。ただ付言すれば、『源氏物語』と『田舎教師』はいちばん最後まで結論を出せないだろう。
 黄帯と緑帯も然りだが、赤帯と青帯はそれ以上に不完全。なにがまだリストに加わっていないか、はっきりとわかっている。白帯なんか、まるで手附かずだ。そういえば、フレイザー『金枝編』全5巻(白帯)って、いつの間にやら版元品切れのようですね。嘆かわしい。
 不完全ながら、しかしリストの作成は一時中断する。ひとえに眠いからに他ならない。
 それでは。◆

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第2786日目 〈部屋のお掃除;パンドラの箱は開けられた(第1回)〉 [日々の思い・独り言]

 パンドラの箱、別名;大きな方の葛籠箱を、開けてみた。全部ではなく、3箱。途端、いろいろなものが飛び去っていったが、たしかに──神話が伝えるように──希望がそこには残った。……あ、「そこ」は指示代名詞の「そこ」と「底」の掛詞であります(駄洒落とも、笑えぬ言葉遊びともいう)。
 希望とは、①秋成研究の書物や雑誌が思いの外残されていたこと、②岩波文庫の黄帯が大量に仕舞われていて、そのなかには八代集読書に用いた手沢本が含まれていたこと、③折口信夫の初版本や特集雑誌、そうして中公文庫版全集が揃いで残されていたこと、である(2019年12月07日00時11分現在)。
 秋成本で「おお!」と驚喜したのは、国書刊行会版『上田秋成全集』全2巻及び補巻として刊行された『秋成遺文』、鵜月洋『雨月物語評釈』(角川書店)、日本古典文学集成『雨月物語・癇癪談』『春雨物語・書初機嫌海』といったテキスト群(影印本を含む)、『共同研究 秋成とその時代』(勉誠社)、高田衛『上田秋成研究序説』(旧版)などの研究書が出てきたこと。購入したことは覚えているが、それが倉庫へ仕舞いこんだのか、或いは火事の際処分した大量の蔵書の内であったか、よく覚えていなかったのだ。
 いま書架に収まる本と併せて考えるとどうやら、秋成の作品集や研究書は展覧会のパンフレットも含めて散逸したものは、限りなくゼロに近い様子だ。ということは、以前同様わたくしにはまだ資料を自由に使い倒して秋成に関する文章を書く機会がある、ということだ。これは2ヶ月程前に古典のテキストを書架に並べ得たときと同じぐらいの慶事というてよい。
 が、その喜びは束の間。すぐに上書きされてしまった。岩波文庫黄帯の大量発掘が、その原因だ。「大量」というてもその数、たかだか41冊。内、重複は2作、分冊が3作。ゆえ、実数はもうすこし減る勘定ですが、ここへ既に書架に並ぶ或いは室内のダンボール箱に収まる黄帯を加えたら、その数おそらく100冊になんなんとす(あら、100冊ですって、奥様。このままリスト作れちゃいますわね──黄帯だけで。むふぅ!)。
 変な風に押しこんだのか、運搬の途中でずれたのか、よくわからないけれど、幾冊かの本は全体が撓み、表紙カバーともども波打っている。どういうわけか、その被害は西鶴に集中。『西鶴文反故』、『好色五人女』、『本町二十不孝』、『世間胸算用』、一九で『東海道中膝栗毛』が、現時点で把握できる被害確認書目。但し、『世間胸算用』は角川文庫ソフィアの1冊であることをお断りしておく(黄帯の『世間胸算用』は無事。序にいえば『武道伝来記』も然り)。
 未だあるを確認できない書目も、存在する。就中『胆大小心録』と『漆山本 春雨物語』が。処分などぜったいあり得ぬものゆえ、未開梱の箱のなかにあると期待したいが、さて?
 岩波文庫の黄帯発掘を完全に上書きしなかったとはいえ、折口関係の本の発掘もまた喜ばしい出来事であった。穂積生萩の著書2冊(『私の折口信夫』講談社と『執深くあれ』小学館/山折哲雄との対談)があったのは実際のところ、かなり想定外だったのだが、それ以上に想定外というか「ウソッ!?]とキャサリンばりに思わず叫んでしまったのが、中公文庫版折口信夫全集全巻揃いが敷き詰められていたことである。
 これこそ疾うに、いまはもうない伊勢佐木モールの古本屋に売り払ってしまったと思いこんでいたものだから、いやもう、なんというてよいやら、言葉が出て来ないのであります(人はね、本当にうれしいときは却って言葉が出ないものなのですよ)。活字が小さかったりで多少の読みにくさはあると雖も、この文庫版全集の価値が貶められることは、今後まずあるまい。
 ちかごろ自分の心が古典文学の読書へ再び向きつつあるのを、感じている。書架にテキストが並んでいるせいか。が、作品を読んで辞書や註釈、或いは現代語訳に助けを求めること殆ど無く読みこなせるということは、おお神よ感謝します、まだわたくしの能力も然程劣ってはいないということの証し。と、わたくしは自負したい。
 なればこそ年末年始はすべての太宰を休んで、たとえば『万葉集』を読み通してみようか……令和元年ですし。では、どこの出版社から出ている『万葉集』を読むか、というお話になるのですが、ここは一つ、今回大きな方の葛籠箱から発掘した1冊である明治書院「和歌文学体系」の『万葉集』全4巻本にしましょうかね……と思うたら、どうしたわけか、あるのは第1巻だけで残りの巻がないではないか!? という次第で来週か再来週、東京に出て(上京!)購い、重い思いをして多摩川越えて帰宅するとしましょうか。書店さん、帯附き用意して待っててね!◆

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第2785日目 〈部屋のお掃除;『万葉集』発掘編。〉 [日々の思い・独り言]

 時間を縫っての部屋の掃除が続いております。動かせるところは概ね済ませたので、隙間を埋めるような些末な作業に留まっているのが、なんとも隔靴掻痒というところであるけれど……
 こんな現象に見舞われている──思いがけぬ場所から思いがけぬ本や書き物が出てきたり、在るとわかっていながらホコリや他の書籍に阻まれていた本をようやっと取り出せたり……、と。
 前者を代表させるのは、やはり1980年代後半から1990年代後半まで、10年超にわたって書き散らしたエッセイや論文、小説のメモ・断章などだ。日常記録や物思いのあれこれを擬古文で書き綴り続けたレポート用紙116枚よりなる随想は、発見をなによりも落涙随喜した作物である。てっきり火事の際、処分してしまったものと思うておったから、感慨は一入。否、その程度の言葉ではとうてい足りぬ。しばし読み耽って自分が夕飯当番なのをうっかり忘れかけたことは当面、キミとボクとの秘密にしておこう。
 一方、後者の代表といえるのが、つい先程棚の奥から引っ張り出してきた、日本古典文学全集版『万葉集』全4巻(集英社)。第1巻の箱だけやたらと綺麗なのは、それが学生時代のテキストで学校の図書室にて購ったためと思しい。残り3冊は神保町の古書店で購入した──記憶が曖昧だけれど、たしか白山通り沿いの店にて1冊ずつ買ったのではなかったか。
 日本古典文学全集は判型こそ岩波の大系と同じで函入り月報ありな点も然りだが、ビニールのクロスカバーが掛かっているところにわたくしは愛着を感じている。けっして推奨される環境での保管ではなかった架蔵の『万葉集』だが、まるで刊行当時に新刊で購入したと同じような美麗かつ破れ汚れなく、その気になれば頬ずりさえできるが(やらないけどさ)、新刊書店で大系本を購入しても破れシワの問題が付きまとったパラフィン紙よりは、ずっと良い。勿論、美麗なカバーが掛けられた全集本を架蔵しているからこその発言であるのは承知している。
 が、大系本にパラフィン紙が掛けられていようといまいと、それが購入の判断材料になることはないのに較べ、殊全集本に関しては可能な限り件のビニールカバーがあってほしい。同じ巻でカバーのあるものとないものがあれば、売価に多少の差があろうとわたくしはカバーがある方を選んで買う。むろん、月報が付され、本体も状態が良いならば、という前提は譲れないが。とはいえ、そこには、全集本は帯がなくても構わないけれど、大系本は帯が付いているのが望ましい、という逆転現象も生じることを忘れてはならない。
 さて、次に発掘の標的となるのは、廊下に積みあげられた7箱のダンボール箱である。これは火事のあった当時、某倉庫会社に預けていたのを自宅新築後に取り出してきたものだが、ここにはたしか秋成がアダンで作られた筆を使っていた旨研究した本や、大和岩雄の『古事記』偽書論が入っているが、たぶんそうした専門書の類よりも多い数の雑本が仕舞いこまれているはず。実際のところは勿論、開梱してみないとわからない。いうなれば件の7箱はなにが出てくるかわからないという意味で、パンドラの箱とも欲張りじいさんが選んだ大きな葛籠ともいえる代物だ。
 ──実は今日(昨日ですか)、ニトリに行ってきたんです。そうして思ったんです。早く部屋を片附けて居心地の良い、読書スペースを片隅に設けた空間を創らなくっちゃな、と(取り出す本が増えればその分、かの空間の完成の日は遠のくという事実は、ちょっと棚にあげて忘れることとする)。あちこち採寸して、できるところから手を着けていくのですが、ああ、いったい完成までにどれだけのお金が掛かるんでしょうね?◆

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第2784日目 〈太宰治『もの思う葦』の刊行は、奥野健男最大の功績だと思う。〉 [日々の思い・独り言]

 太宰治は『二十世紀旗手』に続いて、『もの思う葦』を読んでいます。新潮文庫。
 先月26日の宵刻、帰宅途次の上野東京ラインの車中でページを開いたまではよかったけれど、肉体的精神的疲労(専ら後者)により、がんばっても2ページちょっとしか進められず、そのままカバンの肥やしになっていたところを一昨日から読書再開。山村修いうところの<チューニング>が済んで作品への擦り寄りができてしまうと、一瀉千里とまでは行かないけれど、スキマ時間を使ってすこぶる調子よく読み進めております。
 本書は太宰の書いたアフォリズム集である表題作を巻頭に、最晩年の『如是我聞』を掉尾に置いた。全5部編成の第1部は『もの思う葦』と『碧眼托鉢』、第2部は文学や人生にまつわる文章を、第3部は身辺雑記というてよいか自己と郷里について語った文章を、第4部は作家論を、第5部は前述の通り『如是我聞』を、それぞれ収めた、奥野健男選・編の1冊だ。
 今日ようやく第2部に差し掛かったところゆえ感想などまだ出せないが、奥野曰く「小説家である矜恃にかけて随筆を書くことをいさぎよしとしなかった」(P311)太宰のその種の文章を文庫で読めるだけで貴重なのに加え、それがことごとく新潮文庫所収の小説鑑賞にフィードバックさせられる内容ばかりとあれば、解説子の思惑はおそらくそのあたりにあったのではないか。
 『晩年』で「『晩年』に就いて」に触れたり、川端康成宛檄文を取り挙げたり、と、奥野は太宰文学解説のため各巻にて折に触れて小説以外の文章へ触れてきた。解説の筆を進めながら奥野はゆっくりと、太宰随想を集成した一巻の編纂を企画、その実現めざして新潮文庫編集部へ働きかけていたと想像すると、否、想像しないまでも、そうして事実が異なっていたとしても、貴重な太宰随想をまとめてくれたことに感謝である。実現の自負はどうやら本人にもあったらしく、同書解説にて刊行の意義を自ら高らかに宣べているあたり、新潮文庫版作品集に於ける奥野最大の功績というてよいだろう。
 太宰のエッセイ、そういえば寡聞にしてあるを殆ど聞かないなぁ、となかば訝しく思うていた矢先というてよいタイミングで本書を手にすることになったのは、神慮が働いたがためとわたくしは都合良く解釈したい。むろん、太宰には随想なのか小説なのか、どちらとも杳として判別できぬ作品が幾つもある。それゆえにこそ『もの思う葦』があることは貴重であり、太宰ファンには「福音」というは過ぎた表現かもしれないが、それに近しい喜ばしき出来事なのだ。
 ──たぶん再来週には読了できるはず。ということは、きちんとした感想文はそれから旬日経ぬうちにここへお披露目できるはず。その日が来ることを信じたい。◆

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第2783日目 〈本を読むのが遅いのだけれど、気にしてなんかいないよ。〉 [日々の思い・独り言]

 本を読むのが遅くってねぇ、呆れてみたり自嘲してみたり、時間の捻出に悩んでみたり励んでみたり。
 例。太宰治『晩年』、どれだけの時間を掛けた? 「道化の華」を中途で止した1回目ではなく、『地図』のあとの2回目。すこぶる多くの日を費やしたのではなかったか。顧みる;実際に読んでいた日<何だ彼だで読めなかった/読まなかった日。愚にもつかぬ式である。とはいえ、それゆえにこそ、『二十世紀旗手』と併せて3冊、続けて読むと宜しかろ、といえるようにもなった。
 例。聖書、人生の何分の一をささげた? 一書につき原則1日1章、足掛け8年実質7年。一書読み終わりたれば少々のインターヴァルを置いた。「エレミヤ書」の途中で1年近く、読むのを止めてもいる。続編の「一マカ」と「エズ・ラ」には遺恨あり、けっきょく読書は未だ続行中。完全読了まであとどれぐらい、なんて質問はなしにしてほしい。わたくしも知らぬがゆゑに。
 例。松本清張『西郷札』、もう2週間ぐらい枕許にあるのでは? 就眠儀式。寝る前に1編ずつ読んでゆこう。これの前に読んだ『或る「小倉日記」伝』の経験を基に、斯く決めた。が、この短編集に代わってからこの方、就寝前の読書はまるで停滞している。なんのことはない、他のことにかかずらってそれが終われば寝床へ直行、バタンキューなのである。
 ──嗚呼、遅読の実例を臆面もなく曝した。むろん、ゆっくり読むこと、スキマ時間の読書をばかり実践しているわけではない。先日のこと、争続と確定申告に頭を悩ませていた時分である。かねてよりの宿願と一寸した必要あって谷崎潤一郎の『細雪』と『新々訳 源氏物語』を2日掛けて読み返した(何度目だね?)。わたくしにはこれ、じゅうぶん速いペースなのだ。
 毎日継続される読書なのか、一過的な、或いはすこしく腰を据えてかからねばならぬ読書なのか。要するに、「ケース・バイ・ケース」である。「事情と都合にあわせて柔軟に、臨機応変に対応できる読書スタイルであるべし」というところかしらん。
 もはや、エミール・ファゲの時代ではないのである。◆

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第2782日目 〈そういえば、「岩波文庫の100冊」なんて企画を企んでいたね。〉 [日々の思い・独り言]

 本について語り合える殆ど唯一となった、リアルの友人(なんだか奇異な表現だね)と電話で話していた折。ふと話が途切れたあとにかれがいうには、そういえば岩波文庫の100冊ってどうなったの? と。
 なんだ、それは? 逆に訊ねたわたくしの耳に、かれの深い溜め息が聞こえてきた。岩波文庫の100冊、だって? 夏になると大手文庫出版社がこぞって始める、お抱え作家の依怙贔屓じみたあの空疎なラインナップの岩波文庫ヴァージョンか?
 ならば思い出せてあげよう。そう前置きして、かれが朗読し始めたのは、かつてわたくしが本ブログに投稿したエッセイの一節であった──。
 顔が赤くなるのを感じました。いや、頬が火照って顔全体が紅潮してゆく。脳内が落ち着きをなくし、口は開けど言葉が出て来ない……。いやぁ、こんなフィクションでお馴染みの反応を人間は現実にもするのですね。斯様な企画をぶったこと、本当に忘れていたのです。
 電話を終えたあと、夜も深更に至る時刻であるにもかかわらず寝る気にならず、Macを立ちあげてフォルダにしまったブログ用原稿を検めて……こんなことを書いていたのかぁ、とわれながら呆れてしまいました。
 そうして翌る日の昼、確定申告の準備へ取り掛かる前に確認できる範囲で、架蔵の岩波文庫を点検してみる。合点がいった、まるでさも簡単にリストが作成できるような、楽観的な物言いに。この方法を採れば、たしかに労せずしてリストはできあがるわ、と。
 ただ、そのときにどう結論を下したのか、それとも留保中なのか、よくわからない(というか、覚えていない)のだけれど、1人1冊にするのか、上限を決めてそのなかであれば何冊選んでもいい、とするのか。かりに留保中とすればいま、この時点でのわたくしの判断が優先されるわけだから、結論はまだ出ていない、ということにしよう。どこにもその記録がない以上、斯く判断して差し支えあるまい。
 というわけで、この件に関しては、1人上限3冊までとしましょう。3冊の根拠は特にない、日本人は「3」という数字が好きだよね、おいらも好きだ、というだけのこと。
 これにより、緑帯と赤帯(就中イギリス・ドイツ・フランス・ロシア文学)はセレクトの作業に、想定した程は考えこまなくても済むのであるまいか。どんな作家であっても、リストへ入れるぐらい愛読している、または握玩する作品なぞ、あろうわけがない。すくなくとも今回リストを作成するわたくしは、そうなのであります。
 ──点検ついでに表紙と背表紙を撮影してみたが、それを一見するにいちばん最初のリストは100冊を簡単に超えることでありましょう。そこから絞りこんでゆく作業に頭を悩ませるところは新潮文庫のときと同じですが、1人上限3冊というゆるめた制約がそれを、幾らか軽減してくれるに相違ない。期待をこめて、そう自らにいい聞かせよう。
 これというのも、岩波文庫に入る2冊の近松秋江をリストに入れたいがための我が儘である。秋江は講談社文芸文庫で読む方がいまは簡単だが、このリストはいま手に入る岩波文庫のリストではないのだ。でなければ、十一谷義三郎が三宅幾三郎と共訳したラフカディオ・ヘルン『東西文学評論』を持ってくる大義名分もなくなってしまうではありませんか。
 ……あれ、ハーンが3冊を超えてしまう予感がするよ。平井呈一の訳で『怪談』と『心』、『東の国から』を選ぶつもりだったのだけれど、このままだと4冊になってしまうね。んんん、やはりここでも絞りこみに頭を悩ませることになるのか。やれやれ。◆

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